樋口一葉「たけくらべ」24
きょうは第11章の後半です。
「己《おい》らだつても最少《もすこ》し経てば大人になるのだ。蒲田屋《かばたや》の旦那のやうに角袖外套《かくそでぐわいとう》(1)か何か着てね、祖母《おばあ》さんがしまつて置く金時計を貰《もら》つて、そして指輪もこしらへて、巻烟草《まきたばこ》(2)を吸つて、履く物は何がよからうな、己《おい》らは下駄より雪駄《せつた》が好きだから、三枚裏(3)にして、繻珍《しゆちん》(4)の鼻緒といふのを履くよ、似合ふだらうか」
と言へば、美登利はくすくす笑ひながら、
「背《せい》の低い人が角袖外套に雪駄ばき、まあどんなにか可笑《をか》しからう、目薬の瓶《びん》(5)が歩くやうであらう」
と誹《をと》す(6)に、
「馬鹿を言つてゐらあ、それまでには己らだつて大きくなるさ、こんな小《ち》つぽけではゐない」と威張るに、
「それではまだ何時の事だか知れはしない。天井の鼠が(7)、あれ御覧」
と指をさすに、筆やの女房《つま》を始めとして、座にある者みな笑ひころげぬ。
(1)角形の袖をつけた和服仕立ての外套。
(2)細長く巻き固め、一端に火をつけて吸うたばこ。当時は刻みたばこをキセルで吸うのがふつうで、巻たばこは高級だった。
(3)裏皮を三枚つけて作った厚くて高級な雪駄。
(4)繻子(しゅす)地に2色以上の横糸を使い、模様を織り出した厚い絹織物。帯地、袋物、袈裟などに使う。
(5)当時の目薬のびんは寸づまりで、角張っていた。
(6)他人のことを悪く言う。けなす。
(7)ひとの話を軽くあしらったりすることば。
正太は一人真面目になりて、例の目の玉ぐるぐるとさせながら、「美登利さんは冗談にしてゐるのだね、誰れだつて大人にならぬ者はないに、己らの言ふがなぜをかしからう、奇麗な嫁さんを貰つて、連れて歩くやうになるのだがなあ。己らは何でも奇麗のが好きだから(8)、煎餅《せんべい》やのお福のやうな痘痕《みつちや》づら(9)や、薪《まき》やのお出額《でこ》のやうなが万一《もし》来ようなら、直《ぢき》さま追出して家へは入れてやらないや、己らは痘痕《あばた》と湿《しつ》つかき(10)は大嫌ひ」
と力を入れるに、主人《あるじ》の女は吹出して、
「それでも正さん、よく私が店へ来て下さるの、伯母さんの痘痕《あばた》は見えぬかえ」
と笑ふに、
「それでもお前は年寄りだもの、己らの言ふのは嫁さんの事さ、年寄りはどうでもいい」
とあるに、
「それは大失敗《おほしくじり》だね(11)」
と筆やの女房、おもしろづくに(12)御機嫌を取りぬ。
(8)子どもなりに正太も、美登利が「奇麗」なのを意識している。
(9)疱瘡(ほうそう)のあとのある顔。あばたづら。
(10)疥癬(かいせん)。疥癬虫(ヒゼンダニ)の寄生によって起こる伝染性の皮膚病。
(11)いっぽん取られた。
(12)面白いことにして。
「町内で顔の好いのは花屋のお六さんに、水菓子や(13)の喜《き》いさん。それよりも、それよりもずんと(14)好いは、お前(15)の隣に据《すわ》つてお出《いで》なさるのなれど、正太さんはまあ誰れにしようと極《き》めてあるえ(16)。お六さんの眼つきか、喜いさんの清元《きよもと》(17)か、まあどれをえ」
と問はれて、正太顔を赤くして、
「何だ、お六づらや、喜い公(18)、何処が好い者か」
と釣りらんぷの下を少し居退《ゐの》きて(19)、壁際の方へと尻込《しりご》みをすれば、
「それでは美登利さんが好いのであらう、さう極めてござんすの」
と図星をさされて(20)、
「そんな事を知る物か、何だそんな事」
とくるり後《うしろ》を向いて、壁の腰ばり(21)を指でたたきながら、廻れ廻れ水車《みづぐるま》(22)を小音《おん》に唱《うた》ひ出す。美登利は衆人《おほく》の細螺を集めて、
「さあもう一度はじめから」
と、これは(23)顔をも赤らめざりき。
(13)果物屋。
(14)ずっと。ぐんと。他に比べて違いがはなはだしいさまをいう。
(15)美登利のこと。
(16)きめているの。「え」は、親しみを込めた呼びかけ。
(17)ここでは清元節で鍛えた声。清元節は、清元延寿太夫が富本節から独立して始めた江戸浄瑠璃の一派。
(18)どちらも軽蔑したいいかた。
(19)顔が赤くなったのを見られまいと座を移す。
(20)急所をつかれて。
(21)壁がはげたりしないように、下半部に紙や布を張ったところ。
(22)当時の小学唱歌に「廻れよ廻れ水車、流るる水のよどみなく、くるくる廻れ水車」などとある。
(23)美登利のほうは。正太郎の片おもいをうつし出している。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から
俺だっても少したてば大人になるのだ、蒲田屋の旦那のように角袖(かくそで)外套か何か着てね、お祖母さんがしまって置く金時計を貰って、そして指輪もこしらえて、巻煙草を吸って、履く物は何がよかろうな、おいらは下駄より雪駄が好きだから、三枚裏にして繻珍(しゆちん)の鼻緒というのを履くよ、似合うだろうかと正太が言うので、美登利はくすくす笑いながら、背(せい)のひくい人か角袖外套の雪駄ばき、まあどんなにかおかしかろう、目薬の瓶が歩くようであろうと水を差すと、馬鹿を言ってらあ、それまでにはおいらだって大きくなるさ、こんなちっぽけではいないといばった正太だったが、美登利がそれではまだいつのことだか知れはしない、天井の鼠があれごらん、と指をさしたので、筆屋の女房を始めとしている者みんなが笑いころげたのであった。
正太は一人真面目になって、例の目の玉をぐるぐるとさせながら、美登利さんは冗談にしているのだね、誰だって大人にならぬ者はないのに、おいらの言うのが何故おかしかろう、きれいな嫁さんを貰って連れて歩くようになるのだがなあ、おいらは何でもきれいなのが好きだから、煎餅屋のお福のような痘痕(みつちや)づらや薪屋のおでこのようなものがもし来ようものなら、すぐさま追い出してうちへは入れてやらないや、おいらはあばたと疥癬(しつ)かきは大嫌いと力を入れると、主の女は吹き出して、それでも正太さんよく私の店に来てくださるのう、おばさんのあばたは見えぬかえと笑ったのだが、それでもおまえは年寄りだもの、おいらの言うのは嫁さんのことさ、年寄りはどうでもよいという答であったため、それは大しくじりだねと筆屋の女房は面白がって御機嫌を取ったのだった。
町内で顔のよいのは花屋のお六さんに、水菓子屋の喜いさん、それよりも、それよりもずんといいのはおまえの隣に座っておいでなさるのだけれど、正太さんはまあ誰にしようと決めてあるえ、お六さんの目つきか、喜いさんの清元声か、まあどれをえ、と訊かれて、正太は顔を赤くして、何だお六づらや喜い公、どこがいいものかと釣りらんぷの下を少しずれて、壁際の方へと尻込みをしたら、それでは美登利さんがいいのであろう、そう決めてござんすの、と図星をさされて、そんなことを知るものか、何だそんなこと、とくるりと後ろを向いて壁の腰ばりを指で叩きながら、回れ回れ水車を小声で歌い出す、美登利はたくさんの細螺を集めて、さあもう一度初めからと、こちらは顔も赤らめはしなかった。
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