樋口一葉「たけくらべ」22
きょうは、第10章の後半です。
春は桜の賑《にぎわ》ひ(1)よりかけて、なき玉菊が燈籠《とうろう》(2)の頃、つづいて秋の新仁和賀《しんにわか》には十分間に車の飛ぶ事(3)、この通りのみにて七十五輛《りよう》と数へしも、二の替り(4)さへいつしか過ぎて、赤蜻蛉《あかとんぼう》田圃《たんぼ》に乱るれば、横堀(5)に鶉《うづら》なく(6)頃も近づきぬ。朝夕《あさゆふ》の秋風身にしみ渡りて、上清《じやうせい》(7)が店の蚊遣香《かやりこう》、懐炉灰《くわいろばい》に座をゆづり、石橋の田村や(8)が粉挽《こなひ》く臼《うす》の音さびしく、角海老《かどゑび》が時計の響きも、そぞろ哀れの音《ね》を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里《につぽり》の火の光り(9)も、あれが人を焼く烟《けぶ》りかとうら悲しく、茶屋(10)が裏ゆく土手下の細道に、落かかるやうな三味の音《ね》を仰いで聞けば、仲之町《なかのてう》芸者(11)が冴《さ》えたる腕に、「君が情の仮寐《かりね》の床に」(12)と何ならぬ(13)一ふし哀れも深く、この時節より通ひ初《そむ》るは浮かれ浮かるる遊客《ゆふかく》ならで、身にしみじみと実《じつ》の(14)あるお方のよし、遊女《つとめ》あがりのさる女《ひと》が申しき。
(1)吉原では、仲之町で春にだけ桜が植えられ、夜桜見物でにぎわった。さらに、夏には店先に燈籠が飾られる玉菊燈籠、秋には俄(仁和賀)狂言と、「吉原三景容」とも呼ばれる三大イベントがあった。
(2)享保11(1726)年に没した遊女玉菊の追善供養のため、7月、盂蘭盆会(お盆)になると切子燈篭を飾る。
(3)明治26年8月3日の日記に「一昨日の夜、我が門通る車の数をかぞへしに、十分間に七十五輌成りけり」とある。
(4)一般に初日からの演目を入れ替えたあとの興行をいう。ここでは、玉菊の灯籠の後半のこと。
(5)吉原の四方を囲んでいた堀。
(6)『千載和歌集』に 藤原俊成の「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」。
(7)実在した荒物屋上州屋清太郎の略称とみられる。
(8)実在したせんべい屋とみられる。
(9)明治20年から明治37年まで、日暮里に火葬場があった。
(10)吉原の衣紋坂から大門までの五十間道の両側にあった、五十軒茶屋。
(11)遊女屋とは別のところに住み、芸者の登録や取り次ぎなどの事務をした検番から出ている芸者。三味線や鼓の技量などが高いことで知られた。
(12)俗曲の一種、歌沢の「香に迷ふ」の一節「君がなさけのかりねの床の、まくら片敷く夜もすがら」から。
(13)とるに足りない。
(14)誠実さの。
このほどの事かかんもくだくだし(15)や。大音寺前にて珍らしき事は、盲目按摩《めくらあんま》の二十ばかりなる娘、かなはぬ恋に不自由なる身を恨みて、水《みづ》の谷《や》の池に入水《じゆすい》したるを新らしい事とて伝へる位なもの。八百屋の吉五郎《きちごらう》に、「大工の太吉がさつぱりと影を見せぬが何とかせし」と問ふに、「この一件であげられました」と、顔の真中《まんなか》へ指をさして(16)、何の子細なく取立てて噂《うわさ》をする者もなし。大路を見渡せば、罪なき子供の三五人手を引つれて、「開いらいた開らいた、何の花ひらいた」(17)と、無心の遊びも自然と静かにて、廓《くるわ》に通ふ車の音のみ、何時《いつ》に変らず勇ましく聞えぬ。
秋雨《あきさめ》しとしとと降るかと思へば、さつと音して運びくる様なる淋しき夜、通りすがりの客をば待たぬ店なれば、筆やの妻は宵《よひ》のほどより表の戸をたてて、中に集まりしは例の美登利に正太郎、その外には小さき子供の二三人寄りて、細螺《きしやご》はじき(18)の幼なげな事して遊ぶほどに、美登利ふと耳を立てて、
「あれ、誰れか買物に来たのではないか、溝板《どぶいた》を踏む足音がする」
といへば、
「おやさうか、己《お》いらは少《ち》つとも聞《きか》なかつた」
と正太もちうちうたこかい(19)の手を止めて、
「誰れか仲間が来たのでは無いか」
と嬉《うれ》しがるに、門《かど》なる人はこの店の前まで来たりける足音の聞えしばかり、それよりはふつと絶えて、音も沙汰《さた》もなし。
(15)煩わしい。くどい。
(16)鼻を指して花札賭博であることを表している。
(17)江戸時代から浅草近辺で唄われていたわらべ歌。手をつないで輪をつくり、唄にあわせて輪の大きさを変えて遊ばれる。
(18)小さな巻貝キサゴの貝殻を散らして、指ではじき当てる子供の遊び。おはじき。
(19)ちゅう、ちゅう、たこ、かい、な。子どもが、おはじきなどの数を口で唱えながら二つずつ数えるとき、2、4、6、8、10の代わりに用いる語。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から
春の桜の賑わいから始まり、亡き玉菊の燈籠の頃、つづいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶ数はこの通りだけで七十五輛にのぼるが、二の替わりさえいつしか過ぎて、赤蜻蛉(とんぼ)が田圃に飛び乱れれば横堀に鶉(うずら)の鳴く頃も近づいたのである、朝夕の秋風が身にしみ渡って上清(じようせい)の店の蚊遣香(かやりこう)は懐炉灰に座をゆずり、石橋の田村屋の粉を挽く臼の音は淋しく、角海老(かどえび)の時計の響きも何か哀れな音を伝えるようになると、四季を通して絶える間のない日暮里の火の光もあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋の裏の上手下の細道を行く時降りかかるような三味線の音を仰いで聞けば、仲之町の芸者の冴えた腕で、君の情けの仮寝の床にと何だか一節(ひとふし)の情緒も深く、この時節から通い始めるのは浮かれ浮かれる遊客ではなく、身にしみじみと実のあるお方ということ、遊女上がりのある人がそう言っていた、これだけのことを書こうとするのもくだくだしいことよ大音寺前において珍しいことはめくらの按摩(あんま)の二十ばかりの娘が、かなわぬ恋をし不自由な体を恨んで水の谷(や)の池に身を投げたのを新しいこととして伝えるくらいのもの、 八百屋の吉五郎に大工の太吉がさつぱりと姿を見せないがどうかしたのかと尋ねるとこの一件であげられましたと、顔の真中へ指をさして花札賭博を示し、それ以上深い事情もなく取り立てて噂をする者もいない、大路を見渡せば罪のない子供が三人から五人ほど手を合わせて開(ひ)いらいた開(ひ)らいた何の花が開(ひ)らいたと、無心に遊ぶのも自然と静かであって、廓に通う車の音だけがいつもと変わらず勇ましく聞こえるのだった。
秋雨かしとしとと降るかと思えばさっと音がして運ばれて来るような淋しい夜、通りすがりの客をあてにしない店だから、筆屋の妻は宵の頃から表の戸を閉めていて、その中 に集まっているのは例の美登利に正太郎、そのほかには小さい子供が二三人来て細螺(きしやご)おはじきという幼げなことをして遊んでいるうちに、美登利がふと耳をすまして、あれ誰か買物に来たのではないかどぶ板を踏む足音がすると言うと、おやそうか、おいらはちっとも聞こえなかったと正太もちゅうちゅうたこかいの手を止めて、誰か仲間が来たのではないかと嬉しがったが、門に立った人が、この店の前まで来た足音が聞こえたばかりでそれからは気配はふっと途絶えて、音も沙汰もない。
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