樋口一葉「たけくらべ」⑱
きょうは、第8章の後半です。
かかる中にて朝夕《あさゆふ》を過ごせば、衣《きぬ》の白地《しらぢ》の紅《べに》に染《し》む(1)事無理ならず、美登利の眼の中に男といふ者さつても(2)怕《こわ》からず恐ろしからず、女郎といふ者さのみ賤《いや》しき勤めとも思はねば、過ぎし故郷を出立《しゆつたつ》の当時、ないて姉をば送りしこと夢のやうに思はれて、今日この頃の全盛に父母への孝養うらやましく、お職を徹《とほ》す(3)姉が身の、憂《う》いの愁《つ》らいの数も知らねば、まち人恋ふる鼠《ねづみ》なき(4)、格子の呪文《じゆもん》(5)、別れの背中《せな》に手加減の秘密《おく》(6)まで、唯おもしろく聞なされて、廓《くるわ》ことば(7)を町にいふまで、去りとは恥かしからず思へるも哀《あはれ》なり、年はやうやう数への十四、人形抱いて頬《ほう》ずりする心は、御華族のお姫様とて変りなけれど、修身の講義、家政学のいくたて(8)も学びしは学校にてばかり、誠あけくれ耳に入りしは好いた好かぬの客の風説《うはさ》、仕着せ(9)、積み夜具(10)、茶屋への行《ゆき》わたり(11)、派手は美事に、かなはぬは見すぼらしく、人事我事、分別をいふはまだ早し。幼な心に目の前の花のみはしるく(12)、持まへの負けじ気性は勝手に馳《は》せ廻りて、雲のやうな形(13)をこしらへぬ。
(1)周りから悪い影響を受ける。
(2)ちっとも。少しも。
(3)売れっこの地位を守りつづけること。
(4)遊女などが客を呼び入れようとするときなどにする、鼠の鳴きまね。
(5)格子をたたいて客を呼び寄せる行為。
(6)別れのとき、客の背中をたたく秘訣。
(7)吉原などの遊里で遊女が用いた特殊なことば。出身地のなまりを隠し、平等に客に接するようにとの配慮からとされている。「アリンス」、「ゴザンス」 (尊敬)、「行カシャンス」 (お行きになる)、「ワチキ」 (自称)、「ヌシ」 (対称) などが用いられた。
(8)あらまし。事の次第。
(9)雇い人らに季節ごとに支給する衣類。
(10)なじみ客から遊女に贈られた新調の夜具を店先に積んで飾ったもの。
(11)つけ届け。
(12)目の前のはなやかさだけがはっきり見える。
(13)とりとめがない空想。
気違ひ街道、寐《ね》ぼれ道(14)、朝がへりの殿がた一順すみて、朝寐の町も門《かど》の箒目《ははきめ》青海波《せいがいは》をゑがき(15)、打水よきほどに済みし表町の通りを見渡せば、来るは来るは、万年町《まんねんてう》山伏町《やまぶしてう》(16)、新谷町《しんたにまち》あたりを塒《ねぐら》にして、一能一術これも芸人の名はのがれぬ、よかよか飴《あめ》(17)や軽業師、人形つかひ大神楽《だいかぐら》(18)、住吉《すみよし》をどり(19)に角兵衛獅子《かくべいじし》(20)、おもひおもひの扮粧《いでたち》して、縮緬透綾《ちりめんすきや》の伊達もあれば、薩摩《さつま》がすり(21)の洗ひ着に黒襦子《くろじゆす》の幅狭帯《はばせまおび》、よき女もあり男もあり、五人七人十人一組の大たむろ(22)もあれば、一人淋しき痩《や》せ老爺《おやぢ》の破《や》れ三味線《ざみせん》かかへて行くもあり、六つ五つなる女の子に赤襷《あかだすき》させて、あれは紀の国(23)おどらするも見ゆ。お顧客《とくい》は廓内《かくない》に居つづけ客(24)のなぐさみ、女郎の憂さ晴らし、彼処《かしこ》(25)に入る身の生涯《せうがい》やめられぬ得分(26)ありと知られて、来るも来るも此処らの町に細かしき貰《もら》ひを心に止めず、裾に海草《みるめ》の(27)いかがはしき乞食さへ、門《かど》には立たず行過るぞかし。
(14)寝ぼけた客の帰り道。「ねぼれ」は、ねぼけること。
(15)ほうきで掃いた跡が波のようにきれいについて。
(16)下谷山伏町。東京市中における三大貧民窟の一つ。
(17)飴をさした盤台を頭上にのせて「よかよかどんどん」と太鼓を打ち、歌をうたって歩く飴屋。
(18)獅子舞、曲芸、掛合茶番などの曲芸。もともと伊勢神宮に神楽を奉納するとしたところから出た。
(19)大阪の住吉大社の御田植神事に行われる踊り。歌い手は上に御幣をつけ縁に幕を垂らした大傘を立てて、手の割り竹で傘の柄を打ちながら歌う。
(20)獅子頭をかぶり、鶏の尾をつけた衣服を着た子どもが2、3人、笛や太鼓の音につれて踊り回り、逆立ちなどの演技をする。
(21)紺地に白の絣模様を織り出した平織りの木綿布。染め色の堅牢さで知られる。
(22)大群。「たむろ」は、仲間や同じ職業の人々などが寄り集まっていること。
(23)俗謡「かっぽれ」の歌詞。「あれは紀伊の国 ヤレコノコレワイサ」。
(24)遊廓に居つづけている客。
(25)吉原のこと。
(26)もうけ。利益。
(27)ボロボロの着物の。「みるめ」つまり海藻ミルの形からボロのたとえ。
容貌《きりよう》よき女太夫《おんなだゆう》(28)の、笠《かさ》にかくれぬ床《ゆか》しの頬を見せながら、喉自慢《のどじまん》、腕自慢、「あれ、あの声をこの町には聞かせぬが憎くし」と筆やの女房舌うちして言へば、店先に腰をかけて徃来《ゆきき》を眺《なが》めし湯がへりの美登利、はらりと下る前髪の毛を黄楊《つげ》の鬂櫛《びんぐし》(29)にちやつと(30)掻《か》きあげて、「伯母さん、あの太夫さん呼んで来ませう」とて、はたはた駆けよつて袂《たもと》にすがり、投げ入れし一品《ひとしな》を誰れにも笑つて告げざりしが、好みの明烏《あけがらす》(31)さらりと唄はせて、「又御贔負《ごひいき》を」の嬌音《きやうおん》(32)、これたやすくは買ひがたし。あれが子供の処業《しわざ》かと寄集りし人舌を巻いて、太夫よりは美登利の顔を眺めぬ。「伊達には(33)通るほどの芸人を此処にせき止めて、三味《さみ》の音《ね》、笛の音、太鼓の音、うたはせて舞はせて人のせぬ事して見たい」と折ふし正太に咡《ささや》いて聞かせれば、驚いて呆《あき》れて、「己《おい》らは嫌やだな」。
(28)菅笠をかぶり、三味線や胡弓の弾き語りをして歩いた女の門付け芸人。
(29)鬢(びん)をかきあげるのに用いる櫛。黄楊(つげ)製のものが多く、横長で歯が粗い。
(31)新内節の「明烏夢泡雪」。江戸三河島であった情死事件を、吉原の遊女浦里と春日屋時次郎の情話として脚色したもの。
(32)美しくあでやかな声。女性のなまめかしい声。
(33)意気、侠気をことさらに示そうと。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から
こんな中で朝夕を過ごせば、衣の白地が紅に染まるのも無理はない、美登利の目には男というものがいっこうに怖くもなく恐ろしくもなく女郎というものをさほど賤しいつとめとも感じないので、かつて故郷を出た当時泣いて姉を送ったことが夢のように思われて、今日この頃の姉の全盛のおかげで父母に孝行できるのが羨ましく、売れっ子で通す姉の身の、憂さつらさのほども知らないから、客を求めての鼠鳴きや格子の呪文、別れぎわに客の背中を叩く手の加減の秘密まで、ただ面白く聞かれて、廓言葉を町で言うことまでさして恥かしくもなく思っているのも哀れである、年はようやく数えの十四、人形抱いて頬ずりする心は御華族のお姫様でも変わりはないが、修身の講義や、家政学のいくらかも学んだのは学校でばかり、全く明けても暮れても耳に入って来たのは好いた好かぬの客の噂、お仕着せ積み夜具茶屋へのつけ届け、派手なものはみごとに見えるが、そうできないのはみすぼらしく映り、人のことでも自分のことでも分別がつくにはまだ早い、幼心には目の前の花だけが際立ち、持前の負けず嫌いの気性は勝手に走り回って雲のような形をこしらえたのだった、気違い街道、寝ぼれ道へ、朝帰りの殿方が去り一仕事を終えて朝寝坊の町も門の箒の跡が波模様をえがき、打ち水がよい具合に仕上がった表町の通りを見渡せば、来るは来るは、万年町、山伏町、新谷町(しんたにまち)あたりをねぐらにしている、一能一術があるからこれも芸人と呼ばれるべき、よかよか飴屋軽業師、人形つかい大神楽(だいかぐら)、住吉おどりに角兵衛獅子らが、思い思いのいでたちをして、縮緬透綾(すきや)の伊達者もあれば、薩摩絣の洗い着に黒繻子の幅狭帯(はばせまおび)、いい女もあり男もあり、五人七人十人一組の大きな群れもあれば、一人淋しい痩せ老爺(おやじ)が破れ三味線をかかえて行くのもあり、六つ五つくらいの女の子に赤襷(あかだすき)をさせて、あれは紀の国をおどらせるのも見る、お得意は廓の中のい続け客の慰め、女郎の憂さ晴らし、あの場所に入る者には生涯やめられないほどの儲けがあるということか知られていて、来る者来る者ここいらの町でのわずかな貰いは心に留めず、着物の裾が海草(みるめ)のように破れたいかがわしい乞食さえ門に立たないで行き過ぎるものよ、器量のよい女太夫が笠を取って好ましげな頬を見せながら、廓の中で喉自慢、腕自慢、あれあの声をこの町では聞かせないのが憎らしいと筆屋の女房が舌打ちして言うと、店先に腰をかけて往来を眺めていた風呂帰りの美登利、はらりと落ちる前髪の毛を黄楊(つげ)の鬢櫛(びんぐし)にちゃっと掻き上げて、おばさんあの太夫さん呼んで来ましょうと言って、はたはた駆け寄って袂にすがり、投げ入れた一品が何だったのか誰にも笑って教えなかったが自分の好みの明烏(あけがらす)をさらりと歌わせて、また御(ご)ひいきをというあでやかな声まで引き出したがこれはたやすく買えるものではない、あれが子供のしわざかと寄り集まった人は舌を巻いて太夫よりは美登利の顔を眺めたのだった、粋なことをするなら通る限りの芸人をここにせき止めて、三味の音、笛の音、太鼓の音、うたわせて舞わせて人のしないことをしてみたいとその折り美登利が正太に囁いて聞かせたところ、正太は驚いて呆れておいらは厭だな。
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