樋口一葉「たけくらべ」⑪
きょうは、第5章の後半です。
美登利くやしく、止める人を掻《か》きのけて、
「これ、お前がたは(1)三ちやんに何の咎《とが》(2)がある。正太さんと喧嘩がしたくば、正太さんとしたがよい。逃げもせねば隠くしもしない、正太さんはゐぬではないか。此処は私が遊び処《どころ》、お前がたに指でもささしはせぬ。ゑゑ憎くらしい長吉め、三ちやんをなぜぶつ、あれ又引たほした、意趣(3)があらば私をお撃《ぶ》ち、相手には私がなる。伯母さん、止めずに下され」
と身もだへして罵《ののし》れば、
「何を女郎《じよらう》め(4)頬桁《ほうげた》たたく(5)、姉の跡つぎ(6)の乞食め(7)、手前《てめへ》の相手にはこれが相応だ」
と多人数《おほく》のうしろより長吉、泥草履《どろざうり》つかんで投つければ、ねらひ違《たが》はず美登利が額際《ひたいぎわ》にむさき物したたか(8)。血相かへて立あがるを、怪我《けが》でもしてはと抱きとむる女房。
(1)お前たちは何をするの、の意。勝気な美登利らしい話しっぷり。
(2)人から責められたり非難されたりするような行為。
(3)恨む気持ち。遺恨。
(4)女をののしっていう語。ここでは「女郎の妹」という美登利の身の上に対する意識が含まれている。
(5)ものを言う。つべこべ言う。しゃべるのをののしって用いる。
(6)姉の大巻のように遊女になること。
(7)美登利が地元の子ではなく、田舎からの流れ者であることをののしっている。
(8)泥草履があたって、一面に泥を浴びた。
「ざまを見ろ、此方《こち》には龍華寺の藤本がついてゐるぞ、仕かへしには何時《いつ》でも来い、薄馬鹿野郎め、弱虫め、腰ぬけの活地《いくじ》なしめ、帰りには待伏せする、横町の闇《やみ》に気をつけろ」
と三五郎を土間に投出せば、折から靴音(9)、たれやらが交番への注進、今ぞしる、「それ」と長吉声をかくれば、丑松《うしまつ》文次その余《よ》の十余人、方角をかへてばらばらと逃足はやく、抜け裏(10)の露路にかがむもあるべし。「口惜《くや》しいくやしい口惜しい口惜しい、長吉め、文次め、丑松め、なぜ己《お》れを殺さぬ、殺さぬか、己れも三五郎だ、唯死ぬものか、幽霊になつても取殺す(11)ぞ、覚えてゐろ、長吉め」
と湯玉のやうな涙(12)はらはら、はては大声にわつと泣き出《いだ》す、身内や痛からん、筒袖の処々《ところどころ》引さかれて、背中も腰も砂まぶれ、止めるにも止めかねて、勢ひの悽《すさ》まじさに唯おどおどと気を呑《の》まれし、筆やの女房走り寄りて抱きおこし、背中《せな》をなで砂を払ひ、
「堪忍《かんにん》をし、堪忍をし。何と思つても先方《さき》は大勢、此方《こち》は皆よわい者ばかり。大人でさへ手が出しかねたに、叶《かな》はぬは知れてゐる。それでも怪我のないは仕合《しあはせ》、この上は途中の待ぶせが危ない、幸ひの(13)巡査《おまわり》さまに家《うち》まで見て頂かば我々も安心。この通りの子細で御座ります故《ゆゑ》」
と筋をあらあら(14)折からの巡査に語れば、「職掌《しよくしよう》がら(15)いざ送らん」と手を取らるるに、
「いゑいゑ、送つて下さらずとも帰ります、一人で帰ります」
と小さくなるに、
「こりや怕《こわ》い事は無い、其方《そちら》の家《うち》まで送る分の事(16)、心配するな」
と微笑を含んで頭《つむり》を撫《な》でらるるに、弥々《いよいよ》ちぢみて、
「喧嘩《けんくわ》をしたと言ふと、親父《とつ》さんに叱かられます。頭《かしら》の家は大屋さんで御座りますから」
とて凋《しほ》れるをすかして、
「さらば門口《かどぐち》まで送つてやる。叱からるるやうの事はせぬわ」
とて連れらるるに、四隣《あたり》の人胸を撫でてはるかに見送れば、何とかしけん、横町の角《かど》にて巡査の手をば振はなして一目散に逃げぬ。
(9)巡査の足音とみられる。
(10)通り抜けることのできる裏道。
(11)死霊や生霊がとりついて命をとる。
(12)玉になって飛び散る熱湯のように、熱く大粒の涙。
(13)幸いいいときに来てくれた。
(14)だいたい。ざっと。
(15)職務なので。
(16)それだけのこと。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から
美登利は口惜しくて止める人を掻きのけ、これおまえがたは三ちゃんに何の罪がある、正太さんと喧嘩がしたければ正太さんとするがいい、逃げもしなければ隠しもしていない、正太さんはいないではないか、ここは私の遊び場、おまえがたに指でもささしはせぬ、ええ憎らしい長吉め、三ちゃんを何故ぶつ、あれまた引き倒した、恨みがあるなら私をおぶち、相手には私がなる、おばさん止めずにくだされと身もだえして罵ると、何を女郎め大口たたく、姉の跡継ぎの乞食め、てめえの相手にはこれが相応だと大勢の後ろから長吉が、泥草履つかんで投げつければ、ねらいは違(たが)わず美登利の額際にむさ苦しい物がしたたかに当たる、血相変えて立ち上がる美登利を、怪我でもしてはと抱き留める女房、ざまを見ろ、こっちには龍華寺の藤本がついているぞ、仕返しにはいつでも来い、薄馬鹿野郎め、弱虫め、腰ぬけの意気地なしめ、帰りには待ち伏せする、樌町の闇に気をつけろと長吉らが三五郎を土間に投げ出すと、ちょうど靴の音がして誰かが交番に知らせたものと今わかる、それっと長吉が声をかければ丑松文次そのほかの十人あまり、めいめい方角を変えてばらばらと逃げる足の早いこと、抜け裏の路地にかがんだ者もあるに違いない、三五郎はといえばロ階しい口借しい口惜しい口惜しい、長吉め文次め丑松め、何故俺を殺さぬ、殺さぬか、俺も三五郎だ、ただ死ぬものか、幽霊になっても取り殺すぞ、覚えていろ長吉めと湯玉のような涙をはらはら、はては大声にわっと泣き出す、体中さぞ痛いだろう筒袖はところどころ引き裂かれて背中も腰も砂まみれ、乱暴を止めようにも止めかねて勢いの凄まじさにただおどおどと気を呑まれていた、筆屋の女房が走り寄って抱き起こし、背中をなで砂を払い、堪忍おし、堪忍おし、何といってもむこうは大勢、こっちはみんな弱い者ばかり、大人でさえ手を出しかねたのにかなわないに決まっている、それでも怪我のないのは幸せ、この後は途中の待ちぶせがあぶない、幸いいらした巡査(おまわり)様に家まで守っていただけば自分たちも安心、この通りのわけでございますからといきさつをざっとやって来た巡査に語ると、仕事柄だからさあ送ろうと巡査に手を取られた三五郎は、いえいえ送ってくださらずとも帰ります、 一人で帰りますと小さくなるので、こりゃ恐いことはない、おまえさんの家まで送るだけのこと、心配するなと微笑を含んで頭をなでられたのだがいよいよ縮こまって、喧嘩をしたと言うと父(とつ)さんに叱られます、あの頭(かしら)の家はうちの大家さんでございますからと言ってしおれるのを宥めて、では門口まで送ってやる、叱られるようなことはせぬわということで連れられて行ったのをあたりの人は胸をなでおろして遠くに見送っていたら、どうしたのか横町の角で巡査の手を振り放して一目散に逃げてしまったのだった。
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