樋口一葉「たけくらべ」⑩

きょうから第5章に入ります。



待つ身につらき(1)夜半《よは》の置炬燵《おきごたつ》、それは恋ぞかし。吹風《ふくかぜ》すずしき夏の夕ぐれ、ひるの暑さを風呂に流して、身じまい(2)の姿見、母親が手づからそそけ髪(3)つくろひて、我が子ながら美くしきを立ちて見、居て見、「首筋が薄かつた(4)」と猶《なほ》ぞいひける。単衣《ひとへ》は水色友仙《ゆふぜん》(5)の涼しげに、白茶《しらちや》金《きん》らん(6)丸帯(7)少し幅の狭いを結ばせて、庭石に下駄直すまで時は移りぬ。
「まだかまだか」と塀《へい》の廻りを七度《た》び廻り、欠伸《あくび》の数も尽きて、払ふとすれど名物の蚊(8)に首筋、額ぎわしたたか螫《ささ》れ、三五郎弱りきる時、美登利立出でて、「いざ」と言ふに、此方《こなた》は言葉もなく袖《そで》を捉《とら》へて駆け出せば、「息がはづむ、胸が痛い、そんなに急ぐならば此方《こち》は知らぬ、お前一人でお出《いで》」と怒られて、別れ別れの到着。筆やの店へ来し時は、正太が夕飯の最中《もなか》とおぼえし。

(1)端唄「わがもの」の一節、「待つ身につらき置炬燵、実に遣瀬(やるせ)がないわいな」による。
(2)身なりをつくろう、身支度する。化粧して美しく着飾ること。
(3)ほつれて乱れた髪。
(4)首筋につける白粉が薄かった。娘をみがこうとする母の気持による。
(5)友禅染。糊置防染法の染めで、人物・花鳥などの華麗な絵模様が特色。
(6)白茶の地に金糸で模様を織り込んだ厚手の絹織物。
(7)礼装用の女帯。幅広の帯地を二つ折りにして芯を入れ、縫い合わせたもの。
(8)明治26年7月20日の日記に「蚊のいと多き処にて、藪蚊といふ大きなるが夕暮よりうなり出る、おそろしきまで也」とある。

「ああ面白くない、おもしろくない、あの人が来なければ幻燈をはじめるのも嫌。伯母《おば》さん(9)此処《ここ》の家《うち》に智恵の板(10)は売りませぬか、十六武蔵《むさし》(11)でも何でもよい、手が暇《ひま》で困る」
と美登利の淋しがれば、それよと即坐に鋏《はさみ》を借りて、女子《おなご》づれ(12)切抜き(13)にかかる。男は三五郎を中に仁和賀《にわか》のさらひ、
北廓《ほくくわく》(14)全盛見わたせば、軒は提燈《ちようちん》電気燈、いつも賑《にぎは》ふ五丁町(15)
と諸声《もろごゑ》をかしくはやし立つるに、記憶《おぼえ》のよければ去年《こぞ》一昨年《おととし》とさかのぼりて、手振《てぶり》手拍子ひとつも変る事なし。うかれ立たる十人あまりの騒ぎなれば、何事と門《かど》に立ちて人垣をつくりし中より、
「三五郎は居るか、一寸《ちよつと》来てくれ、大急ぎだ」
と、文次《ぶんじ》といふ元結《もとゆひ》よりの呼ぶに、何の用意もなく、
「おいしよ、よし来た」
と身がるに敷居を飛こゆる時、
「この二タ股《また》野郎《やらう》(16)、覚悟をしろ。横町の面《つら》よごしめ、唯《ただ》は置かぬ。誰れだと思ふ、長吉だ、生《なま》(17)ふざけた真似をして後悔するな」
と頬骨《ほうぼね》一撃《うち》、
「あつ」
と魂消《たまげ》て逃入る襟《えり》がみを、つかんで引出す横町の一むれ、
「それ三五郎をたたき殺せ」
「正太を引出してやつてしまへ」
「弱虫にげるな」
「団子屋の頓馬《とんま》も唯は置かぬ」
と潮《うしほ》のやうに沸かへる騒ぎ。筆屋が軒の掛提燈《かけぢようちん》は苦もなくたたき落されて、釣りらんぷ(18)危なし。
「店先の喧嘩《けんくわ》なりませぬ」
と女房が喚《わめ》きも聞かばこそ、人数《にんず》は大凡《おほよそ》十四五人、ねぢ鉢巻に大万燈《おおまんどう》ふりたてて、当るがままの乱暴狼藉《らうぜき》、土足に踏み込む傍若無人《ばうじやくぶじん》、目ざす敵《かたき》の正太が見えねば、
「何処《どこ》へ隠くした」
「何処へ逃げた」
「さあ言はぬか、言はぬか、言はさずに置く物か」
と三五郎を取こめて撃つやら蹴《け》るやら。

(9)小母(よその年配の女性を呼ぶ語)さんの当て字。筆屋のおかみ。
(10)四角、三角、円など形の異なる小さい板をさまざまな形に組み立てて遊ぶ玩具。
(11)盤の中央に親石1個を置き、周囲に16個の子石を並べて勝負を争う遊戯。親石は2個の子石の間に入れば、その両方を取ることができ、子石は親石を盤の隅に追い詰めれば勝つ。
(12)女の子たち。
(13)厚紙に印刷された智恵の板や十六武蔵の札を。
(14)吉原遊廓を指す。この行は、吉原仁和賀の歌詞。
(15)吉原遊郭の、江戸町1・2丁目、京町1・2丁目、角(すみ)町の五つの町。転じて、吉原をさすこともある。
(16)どちら側にもつく恥知らずなやつ。
(17)中途はんぱで、いい加減なものであることを表わす接頭語。
(18)天井からつり下げた、部屋全体を明るくするランプ。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・松浦理恵子]から

待つ身につらい夜半の置炬燵、それは恋というものよ、吹く風すずしい夏の夕暮れ、昼の暑さを風呂に流して、身づくろいに姿見の前、母親が手づからほつれた髪をととのえ、我が子ながら美しいのを立っては見、座っては見、頸筋の白粉が薄かったとなおも言っていたこと、単衣(ひとえ)は水色友褝がすずしげで、白茶(しらちや)金らんの丸帯の少し幅の狭いのを結ばせて庭石の上に下駄を揃えるまでに時は随分過ぎたのだった。まだかまだかと塀のまわりを七たび回り、あくびもし 尽くして、払おうとしても名物の蚊に頸筋と言わず額際と言わずしたたかにさされ、三五郎が弱り切った時、美登利が出て来てさあと言うので、こちらは言葉もなく美登利の袖を捉えて駆け出せば、息がはずむ、胸が痛い、そんなに急ぐのならこっちは知らない、おまえ一人でお行きと怒られて、別れ別れに到着すれば、筆屋の店に来た時は正太の夕飯のさいちゅうらしかった。ああ面白くない、面白くない、あの人が来なければ幻燈を始めるのも厭、おばさんここの家では知恵の板を売っていませんか、十六武蔵でも何でもよい、手持ち無沙汰で困ると美登利が淋しがれば、それよと即座に鋏を借りて娘らは切り抜きにかかる、男は三五郎を中心に仁和賀のおさらい、北廓(ほつかく)全盛見渡せば、軒は提燈電気燈、いつも賑わう五丁町と声を合わせておかしくはやし立てるが、もの覚えがよいので去年一昨年とさかのぼって確かめても、手振り手拍子が一つも変わっていない、浮かれ立った十人あまりの騒ぎだから何事かと門に人垣ができたのだがその中から、三五郎はいるか、ちょっと来てくれ大急ぎだと、文次という元結(もとゆい)よりが呼ぶので、三五郎が何の疑いもなくおいしょ、よし来たと身軽に敷居を飛び越えた時、この二股野郎覚悟をしろ、横町の面(つら)よごしめただでは置かぬ、誰だと思う長吉だふざけくさった真似をして後悔するなと頬骨への一撃、あっと驚いて逃げようとする襟足を、つかんで引き出すのは横町の一群れ、それ三五郎をたたき殺せ、正太を引き出してやってしまえ、弱虫逃げるな、団子屋の頓馬もただでは置かぬと潮(うしお)のように沸きかえる騒ぎ、筆屋の軒の掛提燈は苦もなくたたき落とされて、釣りらんぷがあぶない店先の暄嘩はなりませぬと女房が喚くのを聞くはずもなく、人数はおよそ十四五人、捩鉢巻に大万燈を振り立てて、手当たり次第の乱暴狼藉、土足で踏み込む傍若無人、目ざす敵(かたき)の正太が見えないと、どこへ隠した、どこへ逃げた、さあ言わぬか、言わぬか、言わさずにおくものかと三五郎を取り囲んで打つやら蹴るやら、

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