樋口一葉「たけくらべ」5
きょうは、第三章の最後の部分です。
「だつて僕は弱いもの」
「弱くてもいいよ」
「万燈《まんどう》は振廻せないよ」
「振廻さなくてもいいよ」
「僕が這入《はい》ると負けるがいいかへ」
「負けてもいいのさ、それは仕方がないと諦《あきら》めるから。お前は何もしないでいいから、唯《ただ》横町の組だといふ名で、威張《いば》つてさへくれると豪気《がうぎ》に人気《じんき》がつく(1)からね。己《お》れはこんな無学漢《わからずや》だのに、お前は学《もの》が出来るからね、向ふの奴が漢語か何か(2)で冷語《ひやかし》でも言つたら、此方《こつち》も漢語で仕かへしておくれ。ああ好《い》い心持だ、さつぱりした、お前が承知をしてくれればもう千人力だ。信《のぶ》さんありがたう」
と常に無い優しき言葉も出《いづ》るものなり。
一人は三尺帯(3)に突《つッ》かけ草履の仕事師(4)の息子、一人はかわ色金巾《がなきん》(5)の羽織に紫の兵子帯《へこおび》といふ坊様仕立《じたて》(6)、思ふ事はうらはらに、話しは常に喰《く》ひ違ひがちなれど、長吉は我が門前に産声《うぶごゑ》を揚げしものと、大和尚《だいおしよう》夫婦が贔負《ひいき》もあり、同じ学校へかよへば、私立私立とけなされるも心わるきに、元来愛敬《あいげう》のなき長吉なれば、心から味方につく者もなき憐《あは》れさ、先方《さき》は町内の若衆《わかいしゆ》どもまで尻押《しりおし》をして、ひがみではなし、長吉が負けを取る事、罪は田中屋がたに少なからず。見かけて頼まれし義理としても、嫌やとは言ひかねて信如、
「それではお前の組になるさ。なるといつたら嘘《うそ》はないが、なるべく喧嘩《けんくわ》はせぬ方が勝《かち》だよ。いよいよ先方《さき》が売りに出たら(7)仕方がない。何、いざと言へば田中の正太郎位《ぐらい》小指の先(8)さ」
と、我が力のないは忘れて、信如は机の引出しから京都みやげに貰《もら》ひたる、小鍛冶《こかぢ》(9)の小刀《こがたな》を取出して見すれば、
「よく利《き》れそうだねへ」
と覗《のぞ》き込む長吉が顔、あぶなし(10)、此物《これ》を振廻してなる事か。
(1)ゴウギ、ジンキというように、下町風の言いかたをしている。ここの「豪気」は、程度のはなはだしいさま、たいそう。
(2)字音で読まれる漢字からなる漢語は古くから知識人を中心に用いられ、明治期に入ってからも学問の象徴と考えられ、洋学の翻訳語としての漢語も大量につくられた。
(3)長さが鯨尺で3尺ほどの一重まわしの帯。もともと職人が三尺手ぬぐいを帯代わりに使ったもので、木綿をしごいて用いる。のちには、子供用などにした。
(4)つまさきにひっかけてはく草履。鼻緒を堅くした麻裏草履で、仕事師や職人などが用いた。ここでは、鳶(とび)職。
(5)緑がかった紺色の、固くよった糸で目を細かく織った薄地の広幅綿布。
(6)坊ちゃん風の身なり。
(7)けんかを仕掛けてきたら。
(8)手軽にあしらえることのたとえ。
(9)京都の刀工、三条小鍛冶宗近の通称。ここでは、宗近あるいはその流れをくむ人たちが作った刀の称。
(10)一葉の感想が挿入されたと見られる。
だって僕は弱いもの。弱くてもいいよ。万燈は振り回せないよ。振り回せなくてもいいよ。僕が入ると負けるがいいかえ。負けてもいいのさ、それはしかたがないと諦めるから、おまえは何もしないでいいからただ横町の組だという名目で、いばってさえくれると派手に気勢が上がるからね、俺はこんなわからずやだのにおまえは学(もの)ができるからね、向こうの奴が漢語か何かで冷やかしでも言ったら、こっちも漢語でやり返しておくれ、ああいい心持ちださっぱりしたおまえか承知をしてくれればもう千人力(せんにんりき)だ、信さんありがとうといつもはない優しい言葉も出るものである。
一人は三尺帯に突っかけ草履の職人の息子、 一人はかわ色金巾(かなきん)の羽織に紫の兵子帯(へこおび)という坊様仕立て、思うことはうらはらで、話は常に喰い違いがちだけれど、長吉は自分の寺の門前に産声を上げた者と大和尚(だいおしよう)夫婦がひいきをするのもあり、同じ学校へ通っていれば公立の連中に私立私立とけなされるのも不愉快な上に、元来愛敬のない長吉だから心から味方につく者もない哀れさもある、向こうは町内の若い衆まで尻押しをしていて、ひがみではなく長吉が負けを取ることも罪は田中屋の方に少なくない、見込んで頼まれた義理としても厭とは言いかねて信如は、それではおまえの組になるさ、なると言ったら嘘はないが、なるべく喧嘩はせぬ方が勝ちだよ、いよいよあっちが先に売って来たらしかたがない、なにいざと言えば田中の正太郎ぐらい小指の先さと、自分の力のないのは忘れて、信如は机の抽斗(ひきだし)から京都みやげに貰った、小鍛冶(こかじ)の小刀を取り出して見せると、よく切れそうだねえと覗き込む長吉の顔、あぶないこれを振り回してなることか。
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