樋口一葉「やみ夜」⑬
きょうは、第7章の後半です。
為《な》すまじきは恋とや。色なる中に忍ぶ文字ずり(1)、いざ陸奧《みちのく》にありといふ関(2)の人目に途絶へを詫《わぶ》るは優しかるべし、懸《か》けつ懸けられつ、釣繩《つりなわ》(3)のくるしきは欲よりの間柄なり。一人は誠の心より慕ふとも、よりあはねばこれも片糸《かたいと》(4)の思ひやすらん。その頃《ころ》番町(5)に波崎漂《なみざきたゞよふ》とて衆議院に美男の聞えある年少議員どのありき。遠からぬ県より撰出の当時、やかましかりし沙汰《さた》(6)の世のならひとて疵《きず》にはならねど、秘密は松川との間にかくれて、今日の財産も半《なかば》は何より出《いで》しやら。世にある頃は水魚の交り(7)知らぬ人なく、よき聟得《むこえ》つと洩《も》らせし一《ひ》ト言《こと》を耳に残せる人もあれど、浮雲《ふうん》おほふて乍《たちま》ち昏《くら》し扶桑《ふさう》の影(8)、なしと言はゞそれまでなる外国あるきに年月《としつき》を経て、帰りしはその人すでに亡《う》せけるの後《のち》、今日の羽風《はかぜ》に昔しの塵《ちり》を払ひて、又ぞろ釣り出《いだ》すやその筋のゆかり。官臭《くわんしう》(9)とやら女子《おなご》の知らぬ香《か》のする党には、鮒馬《ふば》(10)の君とて用ひも軽《かる》からず、演説上手に人をも感動さするよし。それもしかなり、口車《くちぐるま》よく廻はらでやは。もしやに引かれて二十五の秋まで、哀れお蘭が一人寝の枕に結ばぬ夢の行方《ゆくへ》はこれなり。
(2)勿来関 (なこそのせき)。常陸と陸奥との国境に古代、設置された関所で、現在の福島県いわき市勿来町付近にあったとされる。「陸奥にありと言ふなる 名取川 なき名とりては くるしかりけり〈壬生忠岑〉」(『古今和歌集』628 )
(5)現在の千代田区1番町から6番町まであたりの通称。江戸時代には大番組が住んでいた。
(6)選挙違反のことを指している。
(7)『蜀志』(諸葛亮伝)から。劉備が諸葛孔明と自分との間柄をたとえた言葉で、水と魚のような切り離せない間柄、非常に親密な交友のことをいう。
(8)「扶桑豈(あ)に影無からんや、浮雲掩(おほ)ひて乍ち昏し。叢蘭豈に芳(かうば)しからざらんや、秋風吹きて先づ敗(やぶ)る」(『和漢朗詠集』)。「扶桑」は太陽のこと。
(10)中国で、皇女の婿は駙馬都尉(ふばとい)の官に任ぜられたことから、貴人の娘婿のことをいう。
誰《た》が為守る操《みさほ》の色ぞ松の常盤《ときは》もかくては甲斐《かひ》なき捨られ物に、一身つくづくと観じては、「浮世いやいや墨染の袖に、嵯峨野(11)は遠し此都《こゝ》ながらの世すて人ともならんは常なれど、憎くき男心におめおめと秋の色ひとり見て、生悟《なまざとり》の経仏に為事《せうこと》なしのあきらめ、それも嫌々、とても狂はゞ一世《せ》を暗《やみ》にして、首尾よくは千載の後まで花紅葉ゆかしの女《ひと》になりおほせ、出来ずは一時の栄花に末は野となれ山路の露と消ゆるもよし。我れながら女夜叉《によやしや》(12)の本性さても恐ろしけれど、かくなりゆくはこれまでの人なり。悔まじ恨まじ、浮世は夢」と、これや恋をしをり(13)に浅ましの観念、おそろしきは涙の後《のち》の女子心《をんなごころ》なり(14)。(11)京都市右京区嵯峨、桂川の左岸一帯。古くから、秋草や虫の名所、あるいは世捨人が庵を結んだことなどで知られる。
(12)女性の夜叉。ヤクシニー(インド神話に登場する種族ヤクシャ(夜叉)の女性形)。
(14)小学館全集の注には「この言葉に一葉文学の本質を見ることができる」とある。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・藤沢周]から
するべきでないのは恋とか。ひそかなる恋、陸奥にあるという関に恋人の訪れが途絶えたのを待ちわびる身はつらいことであろう。誘い、誘われを苦しく思うのはこれも欲からの間柄、一人は真実の心から慕っても、よりが合わなければ片思いもする。その頃、番町に波崎漂という、衆議院に美男の評判高い年少の議員がいた。遠くはない県から選出された当時、やかましかった沙汰は世のならいで疵にはならなかったけれども、秘密は松川との間に封じ込められ、今の財産の半分もどこから出たものか分からない。松川の在世中はふたりの親しいつきあいを知らない人はなく、「よい婿を得た」と松川が漏らしたのを耳に残している人もいるはず。だが、浮き雲か覆ってたちまち暗くなり松川の没落である。そんな話はなかったといえばそれまでになるほど、波崎、諸外国を回って年月を経て、帰国したのは松川がすでに亡くなった後。現在の羽振りのよさに昔のけがれを払ったつもりで、またお蘭とのよりを戻そうとでもいうのか。官僚臭とやら女の知らない臭いのする堂では、高官の女婿といって扱いも軽くはなく、演説もうまくて聴衆も感動させるとか。それももっともであろう、ロ車が 回らないわけがない 。もしかしてという想いにひかれて二五の秋まで、哀れお蘭の一人寝の枕に結ばぬ夢の行方はこれである。誰のために守る操か、松の常盤もこうなっては甲斐なき捨てられ物。お蘭、自らの身のことをつくづく考えてはある思いを秘めるのである。
「浮世はもういや、もうたくさん。墨染めの衣着て、嵯峨野は遠いからここにいなから世捨て人になろうと思うことしきりであるけれども、憎い男心のためにおめおめと秋の淋しい景色を一人眺め、生悟りの身で経をあげたり仏に仕えたりして仕方のないことと諦めるのもいや。どうせ狂うのであれば一世を闇にするような事を起こし、うまくいけば千年の後まで残る花紅葉のように奥ゆかしく美しい女になりすます。駄目ならば一時の栄華に後は野となれ山路の露と なれ。自分ながら女夜叉の本性、恐ろしく思うけれども、このようになったのもこれまでのあの人のやり方ゆえ。悔やむまい、恨むまい、浮世は夢・・・・・・」
恐ろしきは涙の後の女心である。
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