樋口一葉「やみ夜」⑧

 きょうから第5章に入ります。

さらば行かんと思ひ立たちしより直次郎、しばしも待たぬ心は弦《つる》をはなれし矢のやうに一ト筋《ひとすぢ》にはしりて、このまゝのお暇乞《いとまごひ》を佐助に通じてお蘭さまにと申上《まをしあぐ》れば、てもさても(1)と驚かれて、「鏡を見給へ、まだその顏色《いろ》にて何処《いづこ》へ行かんとぞ。強情は平時《つね》の時(2)、病ひに勝てぬは人の身なるに、そのやうな気短かはいはで、心静かに養生をせであらんやは。最初《はじめ》よりいひしやうに、此家《こゝ》には少しも心をおかず遠慮も入らず、斟酌《しんしやく》も無用にして、見かへす様な丈夫の人になりて給はらば嬉しかるべし。袖すり合ふも他生の縁(3)と聞くを、仮初《かりそめ》ながら十日ごしも見馴れては他処《よそ》の人とも思はれぬに、帰るに家なしとかいひし一ト言の怪しきを思へば、いづれ普通《なみ》ならぬ悲しき境《さかい》にさまよふにこそ。我れも見給ふ通りの有様にあれゆく邸《やしき》の末はいかならん。はかなき身にもよそへられて(4)弥々《いよいよ》おもはるゝは、浮世の浪《なみ》にもまれゆきて漂ひつかれし人の上(5)なり。何も女の力たらで談合《かたらふ》に甲斐《かひ》なしとも、同じ心は栄花にあきし世の人よりも持つ物ぞや。我れに遠慮あらば、佐助もあり、そよもあり、あの年浪《としなみ》のよるほどには、稽古《けいこ》(6)もつみて世渡りの道も知らぬではなく、それこそ相談の相手にもなるべし。家は化物屋敷のやうなれど、人鬼《ひとおに》の住家《すみか》でもなければ、さのみは物恐《ものお》ぢをし給ふな」
と、少し笑ひてお蘭さまの仰せらるゝは、我が意気地《いくぢ》なくくだらなき奴《やつ》を見ぬき給ひてなぶり給ふにや。誠に我れは此処《ここ》を離れて何処《いづこ》へ行かん目的《あて》もなく、道にて病まば誰れかは助けん、そのまゝの行仆《ゆきだほ》れと、我身の弱きに心さへ折れて、恥かしけれど直次郎、はじめの勢ひには似ず、強てもとは言はざりけり。


(1)「ても」は、「さても」の変化した感動詞で、あきれたり、いまさらのように感じ入ったりして発することば。「てもさても(=さっても)」は、「ても」を強めた言い方。それにしても。さてもまあ。
(2)強情を張るのなら元気なときにしなさい。
(3)袖振り合うも他生の縁、と同じ意。道を行くとき、見知らぬ人と袖が触れ合う程度のことであっても前世からの因縁による。つまり、ちょっとした交渉も偶然に起こるのではなく、すべて深い宿縁によって起こることをいう。「他生」は、この世に生を受ける以前にいた世をさす。
(4)ゆく末はかないわが身にもなぞらえられて。
(5)直次郎のことを指している。
(6)修業。練習。

老夫婦《ふたり》は猶もお蘭様が詞《ことば》の幾倍を加へて、「今少し身体《からだ》のたしかになるまでは、我等が願ひても此家《こゝ》に止《とゞ》めたしと思ひしを、嬢さまよりのお言葉なれば、今は天下はれてのお食客《いそうらう》ぞや。肩身を広くおもふ事をもなし、此邸《こゝ》の用をも助《す》けて、大《おほい》に働くがよかるべし。若き者の愚図《ぐづ》愚図と日を送るは何よりの毒なれば」とて身にあふほどの用事をあれこれと宛《あて》がひて、家内の者のやうにあつかはるれば、それに引れて気の毒(7)も薄く、一日二日三日四日、さらばお詞《ことば》にあまへてとも言はねど、やうやうに根の生へて(8)、我れも分らぬ日を何《なに》とはなしに送りぬ。

(7)きまりが悪いこと。困ってしまうこと。
(8)腰を落ち着けて。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・藤沢周]から

思い立つと少しの間も待てない心、弦を離れた矢のように一筋に走る。このままお暇することを佐助を通じてお蘭さまに申し上げると、なんとまあ急なことと驚かれていう。
「鏡をご覧なさい。まだそんな顔色でどこへいこうというのです。強情を張るのは健康人がいうこと、病気に勝てないのが人の身であるのに、そのような気短なことはいわないで、心静かに養生なさい。最初からいったように、この家には少しも気を遣わないでいいのです。遠慮もいらないし、また私たちが迷惑に思っているのではないかと憶測する必要もない。振り返って見るような丈夫な人になってくださればこちらも嬉しいというもの。袖すり合うも他生の縁と聞くのに、一時のことではあるけれども十日ごしも見慣れたら、よその人とも思われない。まして、帰る家もないということ、いずれにしても普通でない悲しい境涯をさまよっているのではありませんか。はかない自分の身にも引き比べられて、ますます思われるのは浮世の波にもまれて漂い疲れた人であるあなたの身の上。女の力は微力で相談しても甲斐がないとしても、あなたと同じ心は栄華に飽きた世の人より持っています。私に遠慮があるのなら、佐助もいる、おそよもいる。あのように歳をとるほどに年功も積んで、世渡りの道も知らないではない。それこそ相談の相手にもなるでしょう。家は化け物屋敷のようだけれど、人鬼の住みかでもないのでそのように怖がらないでください」

少し笑いながらのお蘭さまの顔に、自分は意気地がなくくだらない奴と見抜かれているような気にもなる。だが、本当に自分はここを離れてどこへいこうというのか。路上で病気になって誰が助けてくれるであろう。そのまま行き倒れになるだけだと我が身の弱さにさきほどの決心までが揺らぎ、恥ずかしいが最初の勢いとは違って、何が何でもここから出ていくとはいわなかった。

お蘭さまの言葉に加えて、老夫婦の「今少し体が確かになるまでは私たちがお願いしてでもここにとどめ置きたいと思っていたのだが、お嬢さまからのお言葉であれば、今は天下晴れての居候。肩身を広く、思うことをし、この邸の用も助けて大いに働くのがよい。若い者がぐずぐずと日を送るのは何よりも毒だから」とい う言葉。あれこれ手ごろな用事をあてがい家内の者のように扱ってくれるので、それに引かれてきまり悪さも薄くなる。一日。 二日。三日。四日。「それならばお言葉に甘えて」とまではいわないけれども、次第次第に腰が落ち着いて、自分でも分からないまま何とはなしに日を送っている。 

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