樋口一葉「やみ夜」⑦
きょうは、第4章の後半です。
かくて眠《ねぶ》りつ覚めつ覚めつ眠りつ、今日ぞ一週といふその午後《ひるすぎ》より我れとおぼえて、粥《かゆ》の湯のゆく(1)やうに成りぬ、やかましけれども心切《しんせつ》(2)あふるゝ佐助翁《さすけおやじ》の介抱、おそよ(3)が待遇《もてなし》、いづれもいづれも心づきては涙こぼるゝ優しの人人に、聞けば病中の有様の乱暴狼藉《らんぼうらうぜき》、あばれ次第にあばれ、狂ひ放題くるひて、今も額に残るおそよが向ふ疵《きず》は、我が投つけし湯呑の痕と説明《とか》れて、微塵《みぢん》(4)立腹気もなき笑顏気の毒に、今更の汗腋下《わき》を伝へば、後悔の念かしらにのぼりて、平常《へいぜい》の心の現はれける我れ恥かしく、
「さてもいかなる事をか申したる。お前様お二人のほかに聞かれし人はなきか」
と裏どへば(5)、佐助大笑ひに笑ひて、
「聞かせたしとても人気《ひとけ》のござらねば、耳引《ひき》たつる(6)は天井の鼠《ねづみ》か、壁をつたふ蜥蝪《とかげ》、我々二人にお嬢様をおきては、この大伽藍《おほがらん》(7)に犬の子のかげもなく、一年三百六十五日客の来る事なく客に行く事なく、無人屋敷《ぶにんやしき》のそれに心配はなけれど、気の付かれなば淋しさに堪へがたく、今までの夢なりし代りに、今宵《こよひ》よりは瞼《まぶた》ふつに(8)合はず、寐《ね》られぬ枕に軒の松風、さりとは馴《な》れぬ身に気の毒や」
とあれば、
「そのお嬢様と聞まするは何時《いつ》も枕辺《ここ》にお出《いで》たるお人か」
「いかにもその通り」
と言はれて、さらば夢にも非《あら》ざりけり。
現《うつつ》か、優しき御声《おんこゑ》に朝夕《てうせき》を慰さめ給ひしは、夢か、御膝《おんひざ》に抱《いだ》き給ひしは。正気づきゆく日数にそへて、目前《まのあたり》お蘭さまと物いふにつけて、分らぬ思ひは同じ処《ところ》を行廻《めぐ》り行めぐり、夢に見たりし女菩薩《によぼさつ》をお蘭さまとすれば、今見るお蘭さまは御人《おんひと》かはりて、我れに無情《つれなし》とにはあらねど、一重《ひとゑ》隔ての中垣に、きつとして馴れがたき素振《そぶり》は、何として御手《おんて》にすがらるべき、何として御膝《おんひざ》にのぼらるべき。悲しき涙を拭《ぬぐ》へと仰せられし、お袖の端《は》の、端《はし》のはしにも我が手のもしも触れたらば、恥かしく恐ろしく、我身はふるへて我が息はとまりぬべく、総じて夢中に見《まみ》へし女《ひと》は嬉《うれ》しく床《ゆか》しくなつかしく、親しさは我れに覚えなけれど、母のやうにもありけるを、現在のお蘭さまは懷かしく床しきほかに、恐ろしく怕《こわ》きやうにて、身も心も一つになどと懸《か》けても(9)仰せられん事か、見たりしには異なる島田髷《しまだまげ》に、美相《びさう》(10)はかくぞおぼえし夢中の面《おも》かげを止《とど》めて、御声《おんこゑ》もかくぞありし朝夕《てうせき》の慰問うれしけれど、思へば此処《ここ》も他人の宿なり、心はゆるすまじき他人の宿なり。いざさらば行かん、このやさしげなるお蘭樣の許《もと》をも辞して。
(1)のどを通るようになる。
(2)親切。
(3)佐助の妻。第1章で「老婆」として登場した。
(4)下に否定の語を伴い、すこしも。けっして、の意。
(5)「裏どふ」の「裏(うら)」は「こころ」の意で、 それとなく相手の心中を探ること。
(6)きき耳をたてる。注意して聞く。
(7)小学館全集の注には「本来は寺院の建物を称するが、ここでは、ガランとして広く人気のない松川の屋敷をさす」とある。
(8)悉に。下に打消の語を伴って、まったく、全然、絶えて、の意。
(9)下に打消しの語を伴い、少しも、全然、いささかも、の意。
(10)美しい姿。美貌。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・藤沢周]から
このように眠っては覚め、覚めては眠りを繰り返しているうちにも、今日で一週間になるという日の午後から正気づいて、粥の湯が喉に通るようになった。ロやかましいけれども親切な佐助爺の介抱、老婆おそよのもてなし、正気に戻ってみるといずれも涙のこぼれるほど優しい人々であるのに、聞けば気のつかぬままに乱暴狼藉を働いたとか。暴れるだけ暴れ、狂い放題に狂い、今も額に残るおそよの傷は自分が投げつけた湯呑みの痕だという。少しも怒った様子も見せないその笑顔 に、今更ながら、後海の念と同時に冷汗が脇を流れ、常日頃からの心が外に出てしまったと恥ずかしさの極みにあった。
「それにしても私はどんなことを申したのでしょう。あなた方二人のほかに聞いていた人はいませんでしたか」
とそれとなく聞くと、佐助が大笑いしていう。
「聞かせたいと思っても、この家には人気がないから、きき耳を立てるのは天井の鼠か壁を伝う蜥蜴くらいなもの。我々二人とお嬢さま以外にはこの大邸に大の子の影とてなく、一年三六五日客のくることもなく、こちらも客になることもなく、無人邸には何の心配もないけれど、気がついたとなれば、淋しさ耐えがたく、今までの夢うつつとはかわって、目がさえては眠れない枕元に軒の松風が聞こえてくるだろう。慣れない身には気の毒かも知れぬが」
「そのお嬢さまとおっしやるのはいつもここにいらっしゃった方でしょうか」
「いかにもその通り」
ではあれは夢ではなかったのだろうか。優しいお声で朝夕慰めてくださったのも、御膝に抱いてくれたのも、現実なのか、いや、夢であったのか。気が確かになっていく日数とともに、お蘭さまを目の前にして語ったりもする。だが、さらに夢であったか現であったか分からない思いは堂々巡りするばかりなのだ。女菩薩がお蘭さまだとすれば、今見ているお蘭さまは人が違うかのように見え、無情というのではないけれど、自分との間に一枚垣根を隔てたようで、馴れ馴れしさも微塵もない。どうして、そんなお蘭さまの御手にすがることができようか、その膝にのぼることなどできようか。「悲しみの涙をふきなさい」とおっしゃってくれた袖の端すら、もし自分の手が触れたらと思うと、恥ずかしく恐ろしく体が震え、息が止まりそうでもある。夢の中で出会った女性はゆかしく懐かしく、 何か覚えなくとも母親のようにも思えたが、だが、お蘭さまはゆかしい懐かしいという感じのほかに恐ろしく怖いような気もして、身も心も一つになどとはけっしておっしゃりそうにもない。その島田髷は夢の中で見たのとは違うが、美しい顔かたちは確かにあの菩薩の面影をとどめて、声もこのようでもあった。朝夕慰めてくれるのは嬉しいけれど、思えばここも他人の家。心を許してはいけない他人の家なのだ。さあ、出ていかねばならない。この優しそうなお蘭さまのもとを辞して。
胸の中でひとりごちる直次郎である。
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