樋口一葉「やみ夜」⑥
きょうは、第四章の前半です。
四
此処《こゝ》に助けられける夜《よ》より三日がほどを夢に過ぐせば、記憶《おぼえ》はたしかならねど、最初《はじめ》の夜見たりし女《によ》菩薩枕のもとにありて介抱し給ふと覚《おぼ》しく、朧気《おぼろげ》ながら美くしき御声《おんこゑ》になぐさめられ、柔らかき御手《おんて》に抱《いだ》かるゝ我れは、宛然《さながら》天上界に生れたらん如く、覚めなばはかなや花間《くわかん》の蝴蝶、我れは人かの境に睡りぬ(1)。
「浮世の中の淋しき時、人の心のつらき時、我が手にすがれ、我が膝にのぼれ、共に携へて野山に遊ばゝや。悲しき涙を人には包むとも、我れにはよしや(2)滝つ瀬も拭ふ袂《たもと》は此処《こゝ》にあり。我れは汝《なんぢ》が心の愚かなるも卑しからず、汝が心の邪《よこしま》なるも憎くからず、過《すぎ》にし方《かた》に犯したる罪の身をくるしめて、今更の悔みに人知らぬ胸を抱《いだ》かば、我れに語りて清《すゞ》しき風を心に呼ぶべし。
(1)花から花へと舞う蝶。荘子が夢の中で胡蝶になり、自分が胡蝶か、胡蝶が自分か区別がつかなくなったという『荘子』(斉物論)の故事「胡蝶の夢」に基づいている。「胡蝶の夢」は、自分とものとの区別のつかない物我一体の境地、あるいは現実と夢とが区別できないことのたとえ。
(2)たとえ。かりに。「よしやせつない思をしても」(鷗外「雁」)
恨めしき時くやしき時はづかしき時、失望の時、落胆の時、世の中すてて山に入りたき時、人を殺して財《もの》を得たき時、高位を得たき時、高官にのぼりたき時、花を見んと思ふ時、月を眺《なが》めんと思ふ時、風をまつ時、雲をのぞむ時、棹《さほ》さす小舟《をぶね》の波のうちにも、嵐《あらし》にむせぶ山のかげにも、日かげに踈《うと》き谷の底にも、我身《わがみ》は常に汝が身に添ひて、水無月《みなづき》(3)の日影、つち裂くる時は清水となりて渇《かわ》きも癒《い》やさん、師走《しはす》(4)の空の雪みぞれ、寒き夕べの皮衣《かはごろも》(5)ともなりぬべし、汝は我と離るべき物ならず、我れは汝と離るべき中《うち》ならず。醜美善悪曲直邪正《きよくちよくじやせい》、あれもなし、これもなし。我れに隠くすことなく、我れに包むことなく、心安く長閑《のどか》に落付《おちつき》て、我がこの腕《かひな》に寄りこの膝《ひざ》の上に睡《ねぶ》るべし」
と、の給ふ御声心身《おんこゑしんみ》にひゞく度《たびたび》に、何処《いづこ》の誰れ様ぞ、かくは優しの御言葉《おんことば》と、伏拜む手先ものに触れて、魂我《わ》れにかへれば、苦熱その身に燃ゆるが如かりし。
(3)陰暦6月の異称。「みなづき」の「な」は、本来は「の」の意で、「水の月」「田に水を引く必要のある月」の意とされる。夏の季語。
(4)陰暦12月の異称。極月ごくげつ。臘月ろうげつ。太陽暦でもいう。
(5)毛皮で作った衣。かわぎぬ。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・藤沢周]から
四
ここに助けられた夜から三日ほど夢を見ているようで、その記憶も確かではないけれども、あの最初の夜に枕元に見た女菩薩の介抱の感触はいまだ朧に残っている。柔らかい御手に抱かれた自分はさながら極楽浄土に生まれたようで、目覚めれば花の間を舞う胡蝶、自分が人であるのかも分からぬまま、また眠りの縁に滑り込むような感じなのだ。
「淋しい時、世間が無情だと思うとき、私の手にすかりなさい、私の膝にのぼりなさい。共に手を携えて野山に遊ぼうではありませんか。悲しみの涙を他人には包み隠そうとも、私には滝のようなおまえの涙でも拭う袂かあるのです。私はおまえの心か愚かであるとも卑しいとも思わない。おまえの心がよこしまであることも憎く思わない。過去に犯した罪が身を苦しめて今更の悔やみにどうしようもないことに胸中を痛めているのであれば、私に語って凉しい風を心に呼ぶがいい。恨めしい時、悔しい時、恥ずかしい時、失望した時、落胆した時、世俗を捨て山に入りたいと思う時、人を殺して財産を得たいと思う時、高位を得たい時、高官に上りたい時、花を見たいと思う時、月を眺めたいと思う時、風を待つ時、雲をのぞむ時、棹さす小舟の波の中にも、嵐にむせぶ山の影にも、日の光が届きにくい谷の底にも、私はいつもおまえの身に添って、六月の日照りで地割れがする時には清水となって渇きを癒し、師走の空の雪みぞれが寒い夜には皮衣ともなる。おまえは私と離れるべきではない。私もおまえと離れるべき仲ではない。醜美善悪曲直邪正、あれもない、これもない、私に隠すことなく、私に包むことなく、心静かに落ち着いて私のこの腕に寄り、膝の上で眠るがいい」
そんなお声が心や身に響くたびごとに、 一体どこのお方だろうか、このように優しいお言葉をかけてくださるのは、と伏し拝む。その手先がものに触れて、魂我に返り、苦熱が身に燃え るようなのであった。
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