樋口一葉「やみ夜」⑤
きょうは第三章の後半です。直次郎も、志を抱きつつ世にいれられず、心に暗やみをかかえていました。
残りし孫ぞ即ち今日の高木直次郎、とる年は十九、つもりし憂さは量るも哀れや。仰げば高き鹿野山(1)の麓をはなれ、天羽郡《あまはごほり》(2)と聞えし生れ故郷を振すてけるより、「おのれやれ、世に捨られ物の我れ一身を犧牲《いけにへ》に、こゝ東京に医学の修業して聞伝へたる家の風いざや(3)」とばかり、母と祖父《ぢい》との恨を負ひて、誰れにか談合《はか》らん心一つを杖に、出《いで》し都会《みやこ》に人鬼《ひとおに》(4)はなくとも、何処《いづこ》の里にも用ひらるゝは才子、よしや軽薄のそしりはありとも、口振《くちぶり》利口に取廻しの小器用なるを人喜ぶぞかし、孟甞君《もうしようくん》(5)今の世にあらばいざ知らず、癖づきし心(6)は組糸をときたる如く、はてもなくこぢれて微塵《みぢん》愛敬のなきに、仕業も拙《せつ》なりや、某博士《ぼうはかせ》誰れ院長の玄関先に、熱心あふるゝ弁舌さはやかならず、自《みづか》ら食客の糶売《せりうり》(7)したりとて誰れかは正気に聞くべき。何処《いづこ》にも狂気あつかひ情なく、さる処《ところ》にて乞食《こつじき》とあやまたれし時、御台処《おだいどころ》に呼こまれて一飯の御馳走下しおかれしを、さりとは無礼失礼奇怪至極《きくわいしごく》と、蹴返《けか》へす膳部に一喝して出《いで》ぬ。
(1)千葉県・房総半島南西部にある山。山頂付近に神野寺がある。標高379m。
(2)千葉県(上総国)にあった郡。上総国南西部の浦賀水道に面した区域にあり、明治11年に行政区画として発足した郡域は、現在の富津市の多くをしめた。
(3)聞きつたえた歌風を再興しよう。
(4)鬼のように無慈悲で残忍な人。
(5)中国・戦国時代の斉の公族。一芸に秀でた客士数千人をかかえたことで知られ、戦国末の四君の一人に数えられた。
(6)高木直次郎のひねくれた心。
(7)居候の売り込み。
野猪《しゝ》に似たりし勇(8)のみあふれて、智恵は袋の底にや沈みし(9)、誰が目に見ても看板うつて(10)相違なき愚人と知らるれば、流石に憐れむ人もありて、「心は低くせよ、身を惜しむな。その身に合ひたる労働《はたらき》ならば、それ相応に世話しても取らすべし」とて、湯屋の木拾ひ、蕎麦やのかつぎ(11)、権助(12)庭男の数を尽くして、一年がほどに目見へ(13)の数は三十軒、三日と保たず隨徳寺(14)はまだよし、内儀様《かみさま》のじやらくら(15)の鬢《びん》たぼ胸わるやと、張仆《はりたほ》して馳せ出けるもあり、旦那どのと口論のはては腕立《うでだて》(16)の始末はづかしく、警察のお世話にも幾度とかや、又ぞろ(17)此処《こゝ》も敵《かたき》の中と自ら定めぬ。
木賃宿とて燈火《ともしび》くらき場末の旅店に、帳つけ(18)といふ物して送りける昨日今日《きのふけふ》、主人が軽侮《けいぶ》の一言《いちごん》に持病むらむらとして発《おこ》れば、何か堪《こら》へん、筆へし折りて硯を投げつけつ。さして行手は東西南北、ふすや野山の当てもなき身に、高言《こうげん》吐きちらして飛び出《いだ》せば、それよりの一飯もいかゞはすべき。舌かみ切つて死なん際《きわ》まで人の軒端《のきば》に立つ男ならねば、今日も暮れぬる入相の鐘に、さても塒《ねぐら》をしらぬ身は旅烏《たびがらす》にも劣りつべく、来るともなく行くともなく、よろめき来たりし松川屋敷の表門、驚破《すは》といふ間に挽過《ひきすぎ》し車ぞ、佐助も見たりし沢瀉《おもだか》の紋なる。
(8)前後の事情を考えずにひたすら猛進する勇気。
(9)知恵のすべてが入っているという知恵袋による。
(10)看板を掲げる。世間に知れわたる。
(11)出前持ち。
(12)下男。召使い。江戸時代、下男に多い名であったことによる。
(13)奉公人が初めて主人の前に出てあいさつをすること。また、正式に雇われる前の試用期間。
(14)ずいと跡をくらますことをしゃれて寺の名らしく言った。あとのことをかまわずに逃げ出す意。
(15)なまめかしく戯れあうさま。でれでれ。
(16)力をたのみ好んで人と争うこと。暴力沙汰。
(17)副詞の「また」に「そうろう」が付いた「またぞうろう」の音変化。同じようなことがもう一度繰り返されるさま。またしても。
(18)金銭や物品の出納を帳面に書きつけること。記帳係。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・藤沢周]から
その残った孫こそがすなわち今日の高木直次郎、歳は一九で、積もった憂きは推し量るのも哀れ。仰げば高い鹿野山の麓を離れ、天羽郡といわれた故郷を捨てて以来、「世に捨てられた者である自分。一身を犠牲にして、ここ東京で医学の修業に打ち込み、聞き伝えてきた家風でやってみよう」と誰に相談するともなく母と祖父の恨みを胸に秘めて決意したのである。出てきた都は人鬼はいなくとも、どこでも用いられるのは才子で、たとえ軽薄に思われようが口先が巧みな小器用な者が重宝がられる。客人を厚くもてなしたといわれる孟嘗君が今の世にいるならいざ知らす、直次郎のひねくれた心、組み糸をといたようにどこまでもこじれて少しも愛嬌なく、することも拙い。某博士、某院長の玄関先での熱心な弁舌もさわやかというにはとてもほど遠く、自分から居候に置いてくれと安売りしたとて誰が本気で聞くというのか。どこでも狂気扱いで情けなく、ある所では乞食と間違われ台所に呼び入れられたのに腹を立て、「乞食扱いするとは無礼失礼奇怪至極」と一喝、膳を蹴り返し外に出たほどだ。
猪のように向こう見ずの勇気ばかりがあふれ知恵は袋の底に沈んでしまったのか、誰が見ても正真正銘の愚か者とも見える。さすがに不憫に思う人もいて、「心は低くしろ、身を惜しむな、その身に合った仕事なら世話もしてやろう」と紹介もしてくれるのだが、銭湯の木拾い、蕎麦屋の出前、下男、庭男など転々として、目見えした数は一年に三十軒、三日ともたずそのまま奉公先を飛び出すこともあった。それならまだしも、お内儀さんのだらしのない鬢たぼが胸くそ悪いと張り倒して飛び出し、あるいは旦那殿と口論したあげくの暴力沙汰、警察の世話になったことも幾度かある。またもここも敵の中であるかと自ら思い込む始末であった。
木賃宿といっても灯火も暗い場末の旅館で帳面つけの仕事をして日を送り昨日今日。主人の軽侮の一言にまた持病むらむらと沸き起こり、何が我儘か、と筆をへし折り、硯投げつけ、外に出て、ただやみくもに歩く。野宿者のあてもない身であるのに、偉そうなことを吐いて、さてこれから一度の食事さえままならない。舌を噛み切って死ぬ間際まで乞食などできない性分なので、今日一日も暮れ晩鐘が鳴る頃になってもねぐらもなく、これでは旅烏よりも劣るではないかと、いくともなく、くるともなく、よろ よろと歩いていたら松川邸の表門、風が過ぎたと思い、振り返ると、佐助も見たあの車と沢瀉の紋が目に入ったのである。
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