樋口一葉「やみ夜」③

きょうから「やみ夜」の第二章に入ります。


数日《すじつ》の飢《うゑ》と疲れに綿のごとくなりし身を又もや車の歯にかけられて、痛みと驚きとに魂いつか身を離れて、気息の絶えける暫時《しばし》は夢のやうなりしに、馥郁《ふくいく》とせし香の何処《どこ》ともなくして、胸の中《うち》すゞしくなると共に、物に覆はれたらん様なりし頭《かしら》の初めて我れに復《かへ》りて、僅かに目を開きて身辺《あたり》を見廻ぐらせば、気の付《つき》しと見ゆるに、「薬、今少し」といふ声その枕に聞えて、まだ魂の極楽にや遊ぶ、いづれ人間の種《たね》ならぬ女菩薩《によぼさつ》ここにおはしましけり。
「さりとは意地のなき奴《やつ》、疵《きず》は小指の先を少しかすりて、蜻蛉《とんぼ》おふ小僧が小溝にはまりてもこの位の負傷《けが》はありうち(1)なるに、気を失なふ馬鹿もなき物ぞ。しつかりして薬でも呑めや」
と佐助のやかましく小言いふを、
「さうあらあらしくは言はぬ物。いづれ病後か何かにて、酷《ひど》く疲れてゐるらしければ、静かに介抱して遣るがよし。
心を置くべき宿ならねば、気を落つけてゆるゆると睡《ねぶ》り給へ。幾日ありとて此処《ここ》にはさしつかへもなけれど、我家《わがや》へ知らせたしと思はゞ、人をやりて家内の人をも迎ふべし、不時の災難は誰れとてもあるならひなれば、気の毒などの念をさりて思ふまゝの我まゝを言ふがよし、打見し処が病気あがりかとも見ゆるに、かく夜《よ》に入りても家に帰らずば、あらば二《ふ》タ親の心配さこそと思はるゝに、今宵は此処《ここ》に泊まる事として人をば宿処《やど》に走らすべし(2)。目前みての憂ひよりは想像《おもひやり》にこそ苦はますなれ。別条《ことなること》なきよしを知らせて、そのさまざまに走《は》しる想像《おもひやり》の苦を安めたし。
住処《すみか》はいづれぞ」
と問はれて、つらく起かへる男の頬はいたく肉落《にくおち》て、大きやかなる目の光りどんよりと、鼻はひくからねど鼻筋いたく窪《くぼ》みて、さらでもさし出《いで》たる額のいよいよいちじるく、生際《はへぎは》薄くして延びたる髮は頸《ゑり》をおほへり。物いはんとすれど涙のみこぼれて、色もなき唇のぶるぶると戦《おのゝ》くは感の胸に迫りてにや。お蘭は静かにさし寄りて、いざと薬をすゝむれば、手を振りて、
「最早気分はたしかでござりまする。
帰るべき家なく、案じ給ふ親なければ、車に引ころされぬとも、道に行仆《ゆきだほ》れぬとも、我れ一人天命を観ずる(3)外、世間に哀れと見る人もあるまじ。情《なさけ》ある方々に嬉しき詞《ことば》をそゝがるゝは、薄命の我れに中々の苦るしみを増す道理なれば、気のつかざりしほどは兎も角、今は御門外へ捨てさせ給へ。命あるほどは憂きを見尽して、魂さりての屍体《から》は痩《や》せ犬の餌食にならば事たる身なり。恨めしかりし車の紋は沢瀉《おもだか》、暗《やみ》なれども見とめたりし面《おも》かげの主《ぬし》に恨みは必らず返へせど、情《なさけ》ある君達に御恩報じの叶ふべき我れならず。
さらば免《ゆる》し給へ」
と身を起すに足もと定まらずよろよろとするを、
「さてもあぶなし、道理のわからぬ奴《やつ》め。親がなしとてもその身は誰れから貰ひしぞ。さる無造作に粗末にして済むべきや。汝《そち》ごとき不了簡ものゝあればこそ、世上の親に物おもひは絶えざるなれ」
と、我れも一人もちたる子に苦労したりし佐助が、人事《ひとごと》ならず気づかはしさに叱りつけて座らすれば、男は又もや首うなだれて俯《うつ》ぶく。
「逆上してをかしき事を言ふらしければ、今宵一夜こゝに置きて、ゆるゆる睡《ねぶ》らせたし」
と老婆《ばゞ》もいふに、男は老夫婦《ふたり》にまかせてお蘭は我が居間に戻りぬ。



(1)世間によくある。ありがち。
(2)知らせのものを家まで走らせましょう。
(3)天命を悟り、観念する。

 

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。







《現代語訳例》
『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2008.1)[訳・藤沢周]から


数日来の飢えと疲れで綿のようになった身である。そのうえ、車にはねられ痛みと驚きに魂が体をいつのまにか離れ、気絶していたしばらくの間は夢を見ているようでもあった。どこからともなく漂う馥郁とした香り。何かそれが胸の中に涼風でも差すようで、ぼんやりと物にくるまれたようにあった頭に初めて意識が戻り、わずかに目を開けてみた。
「気がついたようですから、薬を今少し」との女の声。
まだ自分の魂は極楽に遊んでいるのであろうか。その声の先を追えば、俗世の人とは思えぬほどの美しい女人、いや菩薩がそこにおられた。
「それにしても意気地のない奴。傷は小指の先を少しかすった程度、蜻蛉を追う小僧が小さな溝にはまってもこのくらいの怪我はありがちなのに、気を失う馬鹿もいないものだ。しっかりして薬でも飲みなさい」
佐助がロやかましく小言めいたことをいうと、「そう荒々しくはいわぬものよ」とお蘭。

「いずれ病後か何かでひどく疲れているようなので静かに介抱してやるのがいいでしょう。気がねするような家ではないので気を落ち着けてゆっくりおやすみなさい。幾日いてもこちらでは差しつかえないけれども、お宅の方に知らせたいと思うのであれば、人を遣りましょう。思いがけない災難は誰にでもあること、気の毒がるお気持など捨ててわがままをいえばいいのです。ちょっと見たところ病気あがりかと見えるのに、このように夜に入っても家に帰らないでは、もしいるのであれば御両親もさぞかし心配しているでしょうから、今晩はここに泊まるとして、知らせの者をお宅まで急いで遣りましょう。あれこれ想像して心配されるよりは、べつだん異常のないことを知らせて安心させてあげたいもの。お住居はどちら」

お蘭に尋ねられて、苦しそうに身を起こす男。頬、ひどく肉が落ち、大きな目の光はどんよりと、鼻筋もたいそう窪んで、そうでなくても突き出た額がさらに目立つ。薄く伸びた髪を頸に垂らしながら、男は物いおうとするのだが、出るのは涙だけだ。血の気のない唇か震えているのは感の胸に迫ったからであろうか。お蘭が静かにそばに寄って、さあ、と薬をすすめると手を振っていう。

「もう気分は確かでございます。帰るべき家も心配する親もなく、車にひき殺されたとて、また道で行き倒れになったとて、私一人、これも天命。世間に哀れと思う人もおりますまい。情ある方々に嬉しい言葉を注がれるのは薄命の私にはかえって苦しみを増すものです。気がつかなかった間はともかく、正気に戻った今は御門の外へお捨てになってください。命あるかぎりは憂きことを見尽くし、魂去った後の屍は痩せ犬の餌食となればそれで事足りる身。恨めしいのはあの車、沢瀉の紋。闇の中ではありましたが、はっきりとその主の面影を覚えている。男に恨みは必ず返すけれども、情あるあなた方の御恩に報いることができる私ではありません。お許しください」
そういって男は身を起こすが、足元がやはりおぼつかない。

「ああ、危ない。道理の分からぬ奴め。親がいないといっても、その身は誰から貰ったと思っているのだ。自分の身をそう粗末にして済むと思っているのか。おまえみたいな者がいるから世間の親は物思いか絶えないのだ」
自らも一人子を持ち苦労した佐助が人事ではないと叱りつけ座らせると、男もまた首をうなだれてうつむいた。
「逆上しておかしな事をいうようなので、今宵一夜ここに置いてゆっくり眠らせたい」という老婆の言葉に、お蘭も男を老夫婦に任せて居間に戻った。

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