樋口一葉「しのぶぐさ(八月)」 ③

きょうは、明治25年9月1日の日記です。 渋谷三郎との婚約破棄について語られます。

九月一日 早朝、国子、姉君を見舞ふ。さしたることなし。母君は鍛冶町(かぢちやう)(1)に金子(きんす)かりんとて趣き給ふ。我脳痛(なうつう)いとはげし。水にてかしらあらひ、はち巻などなす。筆とることいとものうきに、『文章軌範(きはん)』(2)少時(しばし) 通読。韓非子(かんびし)が「説難(ぜいなん)」(3)むねに徹しぬ。午後(ひるすぎ)、母君帰宅。鍛冶町より金十五円かり来たる。午後(ひるすぎ)直(ただち)に、山崎君に金十円返金に趣き給ふ。同氏、「渋谷三郎君を我家(わがや)の聟(むこ)に周せんせばや、もしは嫁に行(ゆき)給ひてはいかゞ」などしきりにいひしを、母君断りて来給ひし由。「世はさまざま也」とて一同笑ふ。渋谷君が今日も何事の感じありしにや、我(わが)もとにての物がたり、怪しう其筋こと引(ひき)かけつゝ、これよりいひ出んを待つものゝ様に見えし。はじめ我父、かの人に望(のぞみ)を属(ぞく)して我が聟(むこ)にといひ出られし頃(4)、其(その)答へあざやかにはなさで、何となく行通(ゆきかよ)ひ、我とも隔てずものがたらひ、国子と三人(みたり)して寄席(よせ)に遊びし事なども有けり。さるほどに、我が父この事を心にかけつゝ、 半(なか)ば事とゝのひし様に思ひて俄(にはか)にうせぬ。しばしありふるほどに、かの人もいまだ年若く思慮定まらざりけんしらず。ある時、母より其事懇(ねんごろ)にいひ出して、「定まりたる答へ聞(きか)まほし」 といひしに、「我自身(みづから)はいさゝか違存もあらず。承諾なしぬ」といへり。母君悦(よろ)こびて、「さらば三枝(さえぐさ)に表立(おもてだち)ての仲立(なかだち)は頼まん」といひしに、「先(まづ)しばし待給へ。猶よく父兄(ちちあに)とも談じて(5)」とて、その日は帰りにき。事いかなるにか有けん、其後(そののち)、佐藤梅吉して怪しう利欲にかゝはりたることいひて来たれるに、母君いたく立腹して、其請求を断り給ひしに、「さらば此縁成りがたし」とて破談に成ぬ。我もとより、是れに心の引かるゝにも非ず、さりとて憎くきにもあらねば、母君のさまざまに怒り給ふをひたすらに取しづめて、其まゝに年月過ぎにき。されども彼方(かなた)よりも往復(ゆきかひ)更にそのかみに替らず。父君が一周忌の折、心がけて訪(とひ)よりたる、新年の礼かゝさぬ事、任官して越後(ゑちご)へ出立せんといふ時まで我家(わがや)にかならず立(たち)よりなどするからに、是れよりもうとみあへず、彼より文(ふみ)来たればこなたよりも返し出しなど親しうはしたり。


(1)神田区鍛冶町の石川銀次郎のこと。一葉の父則義は銀次郎の父と懇意にしていて、則義が経済的な援助をしたこともあったという。
(2)中国宋の謝枋得撰の文章集。7巻。科挙の受験者のため、模範とすべき文章の傑作を編集したもので、韓愈、柳宗元、蘇軾など唐宋の作家の文を中心に69編を集めている。日本では、室町末期に伝来し、江戸時代に広く読まれた。
(3)『韓非子』は中国の思想書。20巻55編。中国戦国時代末の思想家、韓非の著ともされるが未詳。厳格な法治主義の励行が政治の基礎であると説き、秦の始皇帝が感銘を受けたと伝えられる。「説難」はこの書からとったもので続編巻3に収録されている。
(4)一葉の長兄泉太郎が病死し、一葉が戸主となって婿養子を迎えることになった明治21年のころ。父の則義はこのころ警視庁を退職し、退職金をつぎ込んで新事業に乗り出したが失敗に終り、残された一葉には過大な経済的負担となった。則義は失意のうちに明治22年7月に病没した。三郎は東京専門学校を卒業し、23年12月、文官高等試験に合格している。三郎が樋口家に自らが任官するまでの経済的援助を要求したらしく、「怪しう利欲にかゝはりたること」を言って来たと一葉の母がひどく立腹したため破談になったといわれる。
(5)三郎の父、渋谷徳次郎と、三郎の兄の仙二郎。仙二郎が渋谷家の跡目を継いだ。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。






《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から


九月一日。早朝、邦子は姉を見舞いに行く。特別のこともない。母上は鍜冶町の石川銀次郎の所にお金を借りに行かれる。私は頭痛がはげしいので、水で頭を洗い、鉢巻きなどする。小説にとりくむのはとても気が進まないので、「文章軌範」をしばらく読む。「韓非子」の「説難」 の篇は胸に突き刺さる程の感銘を受けた。午後母上は帰宅。鍜冶町から金十五円を借りて来られる。午後すぐに山崎氏のところに十円返金に行かれる。その折に同氏は渋谷三郎さんをうちの聟に世話したいとか、あるいはお嫁に行かれてはどうかなどと盛んにすすめるのを母上は断ってこられたとか。世間には 色々な人がいるものだと皆で笑う。渋谷さんが先日見えたのは、どう思われたのだろうか、その時の話も変に結婚のことをにおわせながら、私の方から言い出すのを待っているかのように感じられた。思えば、はじめ父上があの人に望みをかけ私の聟にと言い出された頃は、はっきりとした返事もしないまま何となく遊びに来られ、私とも親しく話し合ったり、また邦子と三人で寄席に行ったことなどもあった。そのうちに父は、このことを半ばととのったように思ったまゝ急に亡くなったのでした。その後しばらく月日がた つうちに、あの人もまだ年も若く考えがきまらなかったのでしょうか、或る時、母がこの結婚の事を具体的に話し出してはっきりした返事を聞きたいと言うと、
「私自身は全く何の異存もありません。承知しております」
と言われた。母上も喜んで、
「では三枝氏に正式のお仲人を頼みましょう」
と言うと、
「まあ一寸待ってください。なおよく父兄とも相談してから」
と言って其の日は帰って行かれたのでした。その後どんな事情があったのか、佐藤梅吉を通して変に利欲のからまる話を持ってきたので、母上はひどく立腹されその請求を断られると、「ではこの婚約は成立させる事は出来ません」
と言って破談になったのでした。私は最初からこのご縁に心引かれていたのではありません。 またあの人が憎い訳でもないので、 母上がひどく怒っておられるのをひたすら取り静めて月日が過ぎたのでした。しかし渋谷の方からの往き来は以前と少しも変わりませんでした。父上の一周忌にも心をかけて訪ねて来てくれたり、新年の挨拶も欠かさないし、任官して越後へ出発する時まで必ず訪ねて来てくれたりするので、こちらから疎遠にすることも出来ず、先方から手紙が来ればこちらからも返事を出すなどしていたのでした。

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