樋口一葉「しのぶぐさ」⑨
きょうは、明治25年8月22日の続きと23日です。来訪者は絶えないようです。この日記帳は、ここで終わりとなります。
「いざ帰らん」と立しは十一時成し。又立帰りて、「夏子ぬしの目は困りしもの哉(かな)。いかなる質(たち)なるにか」と気遣(きづかは)しげに問はるゝに、「我とこしらへたる近眼(ちかめ)也」と笑ひていへば、「さらば先(まづ)よし。海岸などの見渡し広き処に居(ゐ)て、しばしやしなはゞ、直ちになほるべし」などいひて出(いづ)る。車待(また)せて置(おき)たるなり。身形(みなり)などはよくもあらねど、金時計も出来たり、髭(びげ)もはやしぬ。去年(こぞ)判事補に任官して(1)一年半とたゝぬほどに、検事に昇(しよう)しんして、月俸(げつぽう)五十円なりといふ。我(われ)十四の時、この人十九成けん。松永のもとにて(2)はじめて逢ひし時は、何のすぐれたる景色もなく、学などもいと浅かりけん。思へば世は有為転変(うゐてんぺん)也けり。其時の我と今の我と、進歩の姿処(どころ)かは、むしろ退歩といふ方(かた)ならんを、此人のかく成りのぼりたるなん、ことに浅からぬ感情有けり。此夜何もなさずして床に入る。
(1)渋谷三郎は、祖父の真下専之丞の融貫塾などで学んあだ後、明治21年に東京専門学校法学部を卒業。23年12月に文官高等試験に合格し、翌24年1月に司法官試補に任じられ、新潟地方裁判所に赴任していた。
(2)父、則義の東京府庁時代の知り合いだった松永政愛。山梨出身の同郷で、一葉は政愛の妻に裁縫を習っていた。真下専之丞の庇護を受けていた関係で、三郎もこの家に出入りしていたようだ。
廿三日 晴天。西村君来訪。師君のもとへ明日のかずよみ断りのはがきを出す。渋谷君又来訪。土産(みやげ)に菓子を送らる。西村君直(ただち)に帰る。談話種々(ものがたりさまざま)おこる。「タベ 『むさし野』かはんとて、絵双紙(ゑざうし)やたゝき起して買(かひ)たるはよけれど、間違(まちがひ)て、「吾妻(あづま)にしき」(3)といふものにてあり。是より行(ゆき)て取かへてこん」など笑ふ。「大隈(おほくま)、前島、鳩山(4)をけさ訪(とひ)しかば、路故(みちゆゑ)佐藤の梅吉をも訪(と)ひぬ。これより山崎君訪はゞや」などいふほど、ひるも近づきぬ。「ひる飯(めし)いかに」などいへど、「否(いな)、喰(く)はじ」と計(ばかり)いふに、「さらば」とて車夫に計(ばかり)出す。「書帖(しよでふ)見度(みた)し(5)」といふがまゝに出して見する。高まんのことゞも極(きはま)りなし。「いざ三人にて写真うつしに行か ん。いざいざ」とそゝのかせど、「先々(まづまづ)」とて、我よりやめにす。「越後(ゑちご)へつかば、直(ただち)に手紙を参らすべし。君も給へよ」などいそいそ帰路につく。『近世偉人伝』(6)のこと依頼せらる。「晩菘翁(ばんすうをう)の履歴かき給ふ御処存(ごしよぞん)なきや」といへば、「書(かき)たけれど、いまだ其暇(いとま)に至らす。何とぞ君にも心がけて、御聞こみの事あらば、記(き)をくに止(とど)め給ひてよ」など、いとこと多かり。手紙を約して帰る。今日はいと涼しき日也。午後(ひるすぎ)よりは来る人なく、いと閑暇。小説に一意(いちい)従事。めづらしく手習(てならひ)をなす。夜(よ)に入(いり)てより母君の肩をひねる。少し暑気あたりとみえたり。夫(それ)より絵画。植物の一図(いちづ)也けり。
なみ風のありもあらずも何かせん
一葉(ひとは)のふね(7)のうきよ也けり
(3)明治25年8月に創刊された演芸雑誌で、正しくは『東錦』。
(4)大隈重信、前島密、鳩山和夫。大隈は東京専門学校(早稲田大学の前身)の創立者、前島は同校の前校長、鳩山は明治23年から校長を務めていた。
(5)小学館全集の脚注には「手折帖『仮名序』や書物の一節を書写したもの。邦子の手習の手本にするために書いたと思われる」とある。
(6)蒲生重章編著による近世の偉人の叢伝。初編は明治10年7月刊、明治12年4月刊の第3編の上巻に「真下晩菘」が取り上げられた。また、大正3年4月には、孫の阪本(渋谷)三郎が伝記『晩菘余影』を出版している。
(7)筆名の「一葉」が「ふね」のイメージに拠っていることがわかる。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
「もう帰ろう」
と立たれた時は十一時でした。するとまた立ち戻ってきて、
「夏子さんの目は困ったものですね。どんな性質(たち)のものなのですか」
と心配そうにお尋ねになる。
「私の不摂生から自分で作った近眼です」
と笑って言うと、
「それならまず安心。海岸などの見はらしのよい所でしばらく養生すれば、すぐに治るでしょう」
などと言ってすぐに出られる。車を待たせておいたのでした。着物はそれほどでもないのでしたが、金時計もさげ、髭もはやしておられた。去年判事補に任官して一年半とたたないうちに、検事に昇進して月給は五十円だという。私が十四歳のとき、この人は十九歳だったでしょうか、松永の家で初めてお目にかかった時は、何の見識もなく学問も浅かったことでしょうに、思えば人生とは有為転変極まりないものです。その時の私と今の私は、進歩どころかむしろ退歩と言うべきでしょうに、この人がこんなに立派になられたことに強く心を打たれたことでした。この夜は何もしないで床に入る。
二十三日。晴。西村氏来訪。中島先生の所へ明日の数詠(かずよ)み歌会のお断りのはがきを出す。渋谷さんがまた見える。土産にお菓子をいただく。西村氏はすぐに帰られる。次ぎ次ぎに話がはずむ。渋谷さんは、
「昨晩、『武蔵野』を買 おうと思って絵草子屋をたたき起こして買ったのはよかったけれど、 間違って『東錦(あずまにしき)』というものでした。これから行って取り換えてこようか」
などと言って笑われる。また、
「大隈重信、前島密、鳩山和夫の各氏を今朝お訪ねした。またその道筋にあたるので佐藤梅吉もお訪ねした。これから山崎正助をお訪ねしようと思っている」など話されるうちに正午近くなった。「昼食は」と尋ねても、「いや、食べない」とばかり言われるので、車夫にだけ出す。書いたものを見たいと言われるので、言うままに出しておみせする。その態度の何と高慢なことよ。
「さあ三人で写真を写しに行こう。さあさあ」
といって誘われるが、「まあ、まあ」と言って私の方からやめにする。
「越後へ着いたらすぐにお手紙をあげます。あなたも是非ください」
などと言って、いそいそと帰って行かれた。「近世偉人伝」のことを頼まれる。
「真下晩菘翁の伝記をお書きになるお考えはないのですか」
とお尋ねすると、
「書きたいのだけれど、まだその暇が出来ないのです。どうかあなたも心にかけて置いていただいて、もし聞き込みのことがあったら記憶に留めて置いて下さい」
などと、話はまだまだ尽きない。手紙を約束して帰られる。
今日は特に涼しい。午後からは来客もなく大変暇である。小説のことに専念する。珍しくお習字をする。夜になってから母上の肩をもむ。母上は少々暑気あたりのご様子。それから絵画の勉強。植物の図を一枚かく。
波風のありもあらずも何かせん一葉の舟の浮世なりけり
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