樋口一葉「しのぶぐさ」⑧

きょうは、明治25年8月22日の日記です。渋谷三郎が来訪します。


廿二日 晴天。菊池の老君遊びに参らる。終日談話(ものがたる)。久保木及び藤田屋の息子来る。夜に入りてより来突、渋谷君(1)来訪。「暑中休暇にて帰郷したるなり」とか。種々(さまざま)ものがたりす。我(わが)小説ものする事、三枝(さえぐさ)君(2)より伝へ聞(きき)たりとて、其よしあしなどいふ。「猶つとめ給へ。潔白正直は人間の至宝(しはう)也。是をだに守らば何時(いつ)かは好時(よきとき)逢はずやある。我(われ)其かみの考へには、君の家(うち)かくまでにとは思はず、富有(ものもち)と計(ばかり)思ひしかば、無理をいひたる事も有し。今はた思へばいと気のどくに、心ぐるしさたえ難し。もし相談(はな)したしと思ふことあらば、遠慮なくいひ給へ。小説出版などの為に費用(つひえ)あらば、我たてかへ申べし。又、春のやなり高田なり(3)に紹介頼みたしとならば、我明日にも其労は取らん 」などかたる。半井ぬしのこと、かくかくと我もいへば、「夫(それ)は勉(つと)めてさけ給へ。いづれ恩も有べし、義理も有らんが、 夫(それ)につながるゝ末いとあやふし。正当の結婚なさんとならば、止(とど)むる処なけれど、浮評といふものはあしき事也。潔白の身にもしみつかば、又取かへしなかるべくや。兎角(とにかく)君は戸主の身(4)、振(ふり)かたも六(む)ツかしからんが、国殿は他(よそ)へ嫁(か)し給ふ身、あたら妙齢(としごろ)を空しう思(おぼ)し給ふな。我もむかしは書生上(あが)りの(5)、見る処少なく思ひ広くして、小説にいふ空像(くうざう)にのみ走りたれど、今は流石(さすが)によの風しみこみて、老人(としより)めきたる考へにも成たり」などかたる。「此新年の状は、君や書給ひし。うまきもの也。我、今も人ごとに見せてほこりぬ。何ぞ書きたるものあらば得させてよ、かたみにせん。又持行(もちゆき)てほこりたければ」と例のうまき事いふと知りながら、流石につよくはいろひかねて、短冊 一(ひと)ひら送る。「我が目の近くて渋谷ぬしのお顔さへよくも見えず」(6)と語れば、「困りしもの哉(かな)困りしもの哉。何とかして直し度(たき)もの也。明後日(あさつて)我は帰郷せんと思ふに、あすまた訪(と)はん。諸共(もろとも)に医師へ伴(ともなは)んか、いかに」などかたる。「『都の花』にもし投書なさば、一本を送り給へ」なんど、夜ふくるまで語る。「又何時来(いつく)べきかしらず。写真あらば給はるまじきか、我も送らん。とかくは潔白の世を過し給へ。今御覧ぜよ、必らず善事は成(なる)べし。此事のみは我(われ)保証する也」といふに、我れも、「世の浮説は何といふやしらず、天地神明(しんめい)に計(ばかり)は恥ぢざるつもりなり。もしも世に入れられずば、身を汨羅(べきら)(7)に没するともよし、決してにごりにはしまじと思ふなり。渋谷様、此次参り給ふ頃は、枝豆うらんか、新聞の配達なさんか知れ侍らず(8)。其時立寄らせ給ふや」といへば、「必(かならず)必立寄(たちよら)ん。もしも不義の栄利にほこり給ふに逢(あは)ば、断じて顧みはせざるべし。嗚呼(ああ)、則義(のりよし)どの在世(ざいせ)ならば、かゝる事にも立致(たらいた)らざらまじを、気のどくの事也。父君の愛し給ひし道具などは、いかにかなしたる。もし迫り給ふことありとも、うしなひ給ふな。其場合には我(わが)もとへ告(つげ)こし給へ。夫計(そればかり)はうしなはせ申まじ。衣類(きもの)などはことにも非らず、こしらへんとすれば何時(いつ)にても出来るべし。重代のものは大事ぞかし」など入立(いりたち)てかたる。

(1)一葉の婚約者ともいうべき立場にあった渋谷三郎。このころ新潟県三条区裁判所の検事をしていて、休暇で原町田の仙二郎の家へ帰省していたという。
(2)一葉の父則義の恩人である真下専之丞の孫で銀行家の三枝信三郎。三枝と渋谷三郎は従兄弟。
(3)「朧ろ月夜に如くものぞなき」の古歌にちなんで春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人などの別号のある坪内逍遥と、後に文部大臣などを勤めた高田早苗(半峰)。
(4)婿養子を取って家督を維持しなければならない立場にあった。
(5)三郎の兄、渋谷仙二郎は明治15年に自由民権運動の同志を集めて、自宅に事務所をおいて自由民権運動の政治結社「融貫社」を作り、消滅後も自由党員として活動した。
(6)小学館全集の脚注には、事実、夏子(一葉)はひどい近視であったが、ここは三郎に対する皮肉が含まれている。
(7)中国湖南省北東部を流れる川。湘江の支流。戦国時代、楚の忠臣で詩人の屈原が、国を憂いて身を投げたところとして知られる。
(8)小学館全集の脚注には「実業に就く考えが、すでにこのころからあったことがわかる。女性の職業が少ないので、作家生活をあきらめた場合、極端な細民生活に転落する恐れもあった」。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から

二十二日。晴。菊池の老夫人が遊びに見えた。終日お話する。久保木の兄上と藤田屋の息子が来る。夜になって突然渋谷三郎さんが見える。暑中休暇で帰省してこられたとか。色々とお話する。私が小説を書くことを三枝(さいぐさ)信三郎氏から伝え聞いたといって、その可否について話される。
「とにかく頑張りなさい。潔白と正直は人間の最高の宝です。これさえ守っていれば、いつかは好い時に巡りあうものです。 私は昔はあなたの家がこれほどお困りだとは思わず、お金持ちだとばかり思っていましたので、無理なことを言ったこともありました。今にして思いますと、お気の毒で心苦しさに堪えません。もし相談したいと思うことがあったら遠慮なくおっしゃって下さい。小説出版などのために費用が必要でしたら私がお立替え致しましょう。また坪内逍遥だとか高田早苗などに紹介してほしいとおっしゃるなら、明日にでも努力いたしますよ」
などと話される。半井先生とのいきさつについて、これこれだと私が話すと、
「それはできるだけお避けなさい。いずれにせよ恩もあり義理もあるでしょうが、そのままだと将来のことが気がかりです。正式に結婚なさるのならばお止(と)めする所はないのですが、浮いた噂というものはよくない事です。潔白の身に汚点(しみ)が着いては取り返しがつかないでしょう。とにかくあなたは戸主の身分なのですから身の振り方もむずかしいでしょうが、邦子さんは他家へお嫁に行ける身ですから、あたら娘盛りを空しくお過ごしなさるな。私もむかしは書生上がりで経験も少なく思うことだけが広く、小説にいう空想ばかりに走っていましたが、今は何といっても世間の波風がしみこんで、年寄りめいた考えにもなってしまったのですよ」
さらに続けて、
「今年の年賀状はあなたが書かれたのですか。うまいものですね。私は今でも人々に見せて 自慢しているのです。何か書いたものがあったらください。形見にもしたいし、また持ち歩いて自慢にしたいのです」
例によってうまい事をおっしゃるとは判っていても、流石に強くはお断りもできず、短冊一枚をさしあげる。
「私は近眼なので、あなた様のお顔さえよくは見えないのです」
と話しますと、
「それは困った事ですね。何とかして治してあげたいものです  明後日私は帰郷しようと思っているので、明日また参りましょう。ご一緒に医者へお連れしようと思いますが、如何がでしょう。また、『都の花』にもし執筆されたら一冊送って下さい」
などと夜がふけるまで話される。さらにまた、
「この次は何時また参れるかわかりませ ん。写真があればくださいませんか。私もお送りしましょう。とにかく潔白で世過ぎをなさい。今にきっと、必ず善い事は成就するものです。これは私が保証しますよ」
と言われるので、私も
 「世間の浮した噂では何と言っているか知りませんが、天地神明にだけは恥じないつもりです。もし世間に私の心が認められないならば、汨羅の渕に身を投じてもかまいません。決して濁りには染みない覚悟です。渋谷様がこの次おいでになる頃は、私は枝豆売りか新聞配達におちぶれているか知れません。それでもお立ち寄り下さいますか」
と言うと、
「是非ともお訪ねします。もしもあなたが不義の栄利によって栄えておられたら、断じてお訪ねなど致しませんよ。あゝ、お父上がご在世ならば、こんな事にはならなかったでしょうに、お気の毒な事です。お父上ご愛用の道具などはどうされましたか。どんなにさし迫っても、決して手離さないで下さい。その時には私へお知らせ下さい。それだけは手離させたりは致しません。衣類などはどうということもありません。作ろうと思えばいつでも作れるものです。しかし、代々伝えて来たものは大事な物ですよ」
などと親身になって話される。

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