樋口一葉「しのぶぐさ」⑦

 きょうは、明治25年8月20日と21日です。桃水の縁談などが話題になります。

廿日 早朝、小石河に行く。稽古日也。題二ツ、今日は伊東君とおのれは十点一ツもあらざりし。『湖月鈔』(1)の講義も有けり。田辺君、昨日田中君を来訪されしよし。我が同君のもとに行(ゆき)たること、ならびに天野君を訪ひたるなど残りなく知られたり。「あやしう、秘密といふものを何故にはなし給ひけん」とかたぶかれぬ。中村君のもと(2)に明日かず読(よみ)の催しありしが、障(さは)る事ありて廿四日にのばす。田辺君、天野君、片山君などの催しにて難陳(なんちん)あらんとす。「大造、東(あづま)の両君(ふたり)(3)をも仲間に加へん」といふ。師君又、灸治(きうぢ)に行給ふとなれば、おのれらは午後(ひるすぎ)早々に帰る。帰宅後、小説に従事。
(1)湖月抄。北村季吟による『源氏物語』の注釈書。60巻。延宝元(1673)年成立、同3年刊。書名は、紫式部が石山寺にこもって琵琶湖上の月を見ながら、まずは須磨の巻を書いたという言い伝えによる。『源氏物語』の普及に役立った。
(2)旧麹町区中六番町(現千代田区四番町)の中村礼子(「萩の舎」門人)宅。
(3)「萩の舎」の客員歌人の井岡大造と佐藤東。

廿一日 晴天。午前(ひるまへ)より野々宮君来る。歌の添刪(てんさく)をなす。頗(すこぶ)る佳絶(かぜつ)のも有けり。点取り二ッ詠ず。終りて後、種々談話(さまざまものがたる)。同君が朋友(ほういう)の一女生(いちぢよせい)、本年四月人(ひと)に嫁(か)したるが、其後(そののち)便りのあらざりしかば、此方(こなた)より郵書さし出さんとて、宿処(しゆくしよ)を問合せに其里方(さとかた)へ趣きたる処、其人不計(はからず)も居(を)りたり。嬉しくて、「如何(いか)にして当所には」と問へば、涙を一目(ひとめ)うけてもの語りたる事よ、 哀(あはれ)さ堪(たへ)がたし、とて野々宮氏(うぢ)涙ぐまれぬ。我も心にかゝりて「其人いかにせしにや」ととへば、此頃の新聞などにも見えたる沢木何某(さはきなにがし)が妻なるよし。夫(をつと)は有為(うい)の若人(わかうど)なるに、事素志(そし)と同じからず、鬱憂(うついう)のあまり神経の変動を来たし(4)、終(つひ)に自殺を志ざしゝ也とか。「疵(きず)もいと深かれば、多分(おそらく)は一命も六(む)ツかしかるべし」といふ。其兄弟(はらから)なる無頼漢(ぶらいかん)のこと、親友なる柳何某(やなぎなにがし)とか『時事新報』の記者のこと、取集めて談(はな)し多し。「半井君(ぎみ)、 妻君(さいくん)に野口といふ人(5)周(しう)せんせたばのまやとせしに、中にた立人(たつひと)をかしく引(ひき)しろひて、『今一人(ひとり)の人(6)を是非』といふ。我は余り心も進まねど、頼(たのま)れ故止(やむ)を得ず写真あづかりて来たり」とて見する。さまでには見にくゝも非ず。其人のことに付て小説の事種々(さまざま)かたる。『こさ吹風(ふくかぜ)』(7)といふ痴史(ちし)が作をいたく愛(め)で ゝ、「夫(それ)より、行(ゆき)たしなどの念(おもひ)に成たるなめり」といふ。怪しう世にはさまざまの人も有(ある)もの也けり。同君、「帰路(かへりみち)、半井君を訪(と)はん」とて四時頃帰らる。同君よりかり受(うけ)たる絵画の手本、今日よりならひはじむ(8)。日没後国子と共に散歩(そぞろあるき)す。三崎町もよりより九段下まで行(ゆく)。半井君の寓居(ぐうきよ)もよそながら見たり。宅に帰(かへり)しは八時也し。これより小説に従事。 
(4)神経症。以前はノイローゼと呼ばれていた症状か。
(5)桃水の妹と親しかった野々宮きく子の東京府高等女学校時時代の級友とされる。 
(6)小学館全集の脚注によれば、十二月三十一日の記録に「大坂の例の富豪家の娘」と見える女性。
(7)『胡砂吹く風』。明治24年10月から翌年4月まで、150回にわたって東京朝日新聞に連載された。当時の新聞は連載小説が有力な売り物で、後年、夏目漱石が同紙の専属小説家として『虞美人草』などで人気を博したのはよく知られている。
(8)墨絵あるいは水彩画をはじめたと見られている。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から


二十日。早朝、小石川に行く。稽古日。題二つ。今日は伊東さんも私も十点は一首もなかった。源氏物語湖月抄の講義もあった。田辺さんが昨日田中さんを訪ねられたとか。私が田辺さんを訪ねたことや天野さんを訪ねたことなどすっかり知っておられた。秘密のことを何故話してしまわれたのかと納得できない。中村礼子さんのお宅で明日数詠みの歌会をすることになっていたが、二十四日に延びる。田辺さん、天野さん、片山さんなどの発案で難陳歌会をすることになり、井岡大造、佐藤東の二人も仲間に加えようという。先生がまたお灸に行かれるというので、私たちは午後早々に帰る。帰ってから小説を書く。

 二十一日。晴。午前から野々宮菊子さんが見える。歌の添削をしてあげる。大変良い歌もあった。点取り題二つ詠む。終わってから色々と話す。
「私の友達の一人がこの四月に結婚されたのですが、その後便りがないので、手紙を出そうと思って、住所を聞きにそのお里へ行ったの。すると、思いもかけずそこへ来ていたのです。嬉しくて、どうしてここへとお尋ねすると、目に涙を一杯浮かべて話された事が、お気の毒でならなかったのです」
と野々宮さんは涙ぐまれる。私も気にかかって、
「その人はそれからどうなさったの」
とお尋ねすると、最近新聞に出ていた沢木何とかいう人の妻だとのこと。ご主人は将来有望の青年であったが、仕事が思うように行かず憂欝のあまり神経がおかしくなって、とうとう自殺をはかられたとか。疵(きず)も深いので多分命も危ないだろうと言う。その兄弟の無頼漢のこと、親友の柳とかいう時事新報の記者のことなど、色々と話が多かった。
「半井先生に奥様として野口という人をお世話しようとしたのです。すると、間に立った人が変に引きのばして、もう一人の別の人をと言われるのです。私は気が進まないのですが、頼まれたので仕方なく写真を預かってきたのです」
と言って見せて下さる。それほど醜いというほどでもない。その人のことについて小説の事をいろいろ話される。その人は 「胡沙吹く風」 という半井先生の小説をひどく愛読して、それ以来結婚したいという気持ちになったらしいという。不思議にも、世間には色々な人がいるものよと思ったことでした。野々宮さんは帰りに半井先生をお尋ねするといって四時ごろ帰られた。お借りした絵の手本、今日から習い始める。日が暮れてから邦子と散歩する。三崎町を通って九段下まで行く。半井先生のお宅もよそながら見た。家に帰ったのは八時。それから小説にとりくむ。

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