樋口一葉「しのぶぐさ」⑥
きょうは、明治25年8月18日の日記。一葉と並ぶ「萩の舎」の才媛、田辺龍子のところを訪ねます。
十七日(1) 晴天。九時頃より田辺君を訪(と)ふ。此事につきてのもの語り種々。同氏も、「田中君をとは思はず。大方は、世におのづから伝(つたはり)たるなめり」といふ。「岩本君、植村君など(2)様(やう)に、人の信(しん)深き人々の、いかにしてかいひ出たることゝて、中々に此ふせぎは難(かた)かり。されども其源(そのみなもと)といふ処を探らば、遂にはしられぬ事も有まじ。もとを知らば枝葉は何とも成るべし」などかたる。「とに角今日は此処(ここ)に遊(あそび)て、帰路(かへりみち)天野君にも諸共(もろとも)に行(ゆき)て、此事かたらんはいかに」といふ。「さらば仰せにまかせん」とてひる飯(めし)もたべぬ。小説家の事に付て種々(さまざま)はなす。交際(つきあひ)ひろき人とて、おもしろきこと、をかしき事多し。さがのやおむろ(3)ぬし及び梅花道人(ばいくわだうじん)(4)の発狂したりといふものがたりあり。内田不知庵(ふちあん)(5)君及び桜井方寸子(はうすんし)(6)などの事、明治女学校(7)の教育方針など、或(ある)は高等女学校(8)の浮説の世に流れたる源因、又田辺君朋友(ほういう)の人々の種々(さまざま)なるものがたり等(など)一ツにしてたらず。暑き日一日(いちにち)かたり暮す。タかけてより天野君を土手三番町に訪(と)ふ。家は土手のいと近き処にて(9)、詩人のすみ家(か)覚ゆる様なる、木立いとしげき処に、三曲合奏(10)の嚠喨(りうりやう)として聞え出たるが夫(それ)也。山登(やまと)何某(なにがし)(11)の出稽古(でげいこ)に来たり居(ゐ)し 也とか、暫時(しばし)西洋間の方(かた)にて待つ。やがて其三曲の間(ま)を取片付(とりかたづけ)て、其処(そこ)にてしばしもの談(がた)りす。日没少し前暇乞(いとまごひ)して出ぬ。市ヶ谷見付(みつけ)にて田辺君と袂(たもと)を分ちて、こゝより車にて師のもとまで来る。灸治(きうぢ)に趣き給ひし留守也しかば少時(しばし)待つ。但し、「今一泊なしくれたし」と申置たるよしゆゑ、我宅(わがたく)へは一書(いつしよ)さし出す。晩景(ばんけい)、小出君来訪、しばらく我とかたる。其中(そのうち)に師も帰り給へり。小出君帰宅後しばしばものがたりありたり。田中君のこと、高田君のこと、首藤氏(しゆどううぢ)の娘のことなど其中にも重(おも)なり。
十九日 早朝帰宅せんとせしかど、事多くて九時に成ぬ。いざとて、帰宅がけに、鈴木しげね君来訪。我は直(ただち)に家に帰る。母君、西村へ趣き給ひし留守成き。久保木来る。少時(しばし)にて帰宅。今日は各評の歌ならびに小説の著作(12)少しなす。夜(よ)る早くふしたり。
(1)正しくは、十八日にあたる。
(2)明治女学校教頭の巌本善治と麹町区富士見町教会の牧師、植村正久。
(3)嵯峨之屋御室(1863 - 1947)。小説家、詩人。本名矢崎鎮四郎。東京出身で、坪内逍遙に師事。当初は戯作的作風だったが、後に文明批評もふくむ浪漫的作品を発表したほか、ロシア文学の紹介や翻訳にもつとめた。作品に「初恋」「くされ玉子」など。
(4)中西梅花(1866 - 1898)。詩人。本名幹男。江戸浅草生まれ。虚無的傾向に立つ異色の詩人として活躍した。読売新聞記者として小説を発表したが、紅葉と対立して退社。晩年は精神に乱調を来し、6年余りの療養生活ののち死去。「新体梅花詩集」など。
(5)内田魯庵(1868 - 1929)の別号。本名は貢。東京都出身で、「罪と罰」などの翻訳を行なう。「くれの廿八日」「社会百面相」「思ひ出す人々」など、社会小説を連作した。当時すでに『女学雑誌』を舞台にした評論などで知られていた。
(6)桜井鴎村(1872 - 1929)。翻訳家、児童文学者。本名は彦一郎。明治32年に女子教育視察のために渡米し、帰国後、津田梅子とともに女子英学塾(現津田塾大)を設立した。英米の少年冒険小説を多数翻訳したほか評論家としても活躍した。
(7)明治18年、木村熊二によって東京に設立された私立の女学校。巖本善治のキリスト教精神に基づく近代的な教育が行なわれ、「萩の舎」の才媛、田辺龍子も通った。41年に廃校となった。
(8)旧学制下の女子の中等教育機関。明治15年開設の東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)付設の高等女学校がその嚆矢とされる。田辺龍子も明治女学校の後に学んだ。24年の中学校令改正で、高等女学校は尋常中学校の程度の「女子ニ須要ナル高等普通教育」を授けるところと定められた。
(9)市ヶ谷見附近くの神田川岸の土手下にあったという。
(10)三種類の楽器の合奏。古くは三味線・琴・胡弓に、後には三味線・琴・尺八についていわれた。
(11)山登万和(やまとまんわ、1853 - 1903)箏曲家。3歳で失明。山田流。2代山勢検校(やませけんぎょう)にまなび,明治2年山登検校。本郷天神町に住んでいたので“天神町の山登”といわれた。琴曲歌調の改善にも努め、「近江八景」「須磨の嵐」「菊水」など多くの新曲も作っている。
(12)「うもれ木」を書いていたとみられている。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
十八日。晴。九時頃から田辺さんを訪ねる。今度のことについて色々と話す。彼女も田中さんがしたとは思われない、恐らく世間に自然と伝わったのだろうと言う。巖本善治氏とか植村正久氏などといった社会的信頼のある人々が、どういう訳でか、言い出したことなので、かえってこれに対抗することは困難である。しかしその一番の根源という所を探すならば、わからないという事はあるまい。大本がわかれば枝葉の事はどうにでもなろうなどと話し合う。
「とにかく今日はここでお遊びになって、お帰りのとき、ご一緒に天野さんをお訪ねして、このことをお話してはいかが」
とおっしゃる。
「では、おっしゃる通りに」
ということになり、お昼をいたたく。小説家の事について色々と話される。交際の広い人なので面白い話が多い。嵯峨の屋御室のことや、梅花道人が発狂したという話もあった。内田不知庵氏や桜井方寸氏などの事、明治女学校の教育方針など、あるいは龍子さんが通っていた東京高等女学校に関する不品行の噂の原因、またお友達についての色々な話など、沢山のことを暑い夏の一日中語り暮らす。夕方から天野さんを土手三番町のお宅にお訪ねする。家は土手に大変近い所で、詩人の家のような木立ちの多い所で、三曲合奏の音色が喨々(りょうりょう)と聞こえているのがそれでした。山登何とかという琴の師匠が出稽古に来ておられたとか。しばらく洋間で待つ。やがて合奏の部屋を取り片付けて、そこでしばらく話す。日暮れ少し前にお暇をして出る。市谷見付で田辺さんと別れ、そこから車で中島先生の所へ戻る。先生はお灸に行かれて留守であったのでしばらく待つ。もう一晩泊ってほしいと言い置かれたとのことなので、家にはそのことを手紙で出す。夜に小出先生来訪。しばらく私と話される。そのうちに先生も帰ってこられた。小出先生が帰られてからしばらくお話があった。田中さんのこと、高田さんのこと、首藤さんの娘さんのことなどが主なことでした。
十九日。朝早く家に帰ろうとしたが用事が多くて九時になった。丁度帰ろうとするとき鈴木重嶺先生が見えたが、私はすぐ家に帰る。母上は西村氏宅へ行かれて留守。久保木氏が見え、しばらくして帰られる。今日は各評の歌と小説を少し書く。夜は早く寝る。
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