樋口一葉「しのぶぐさ」①

これまで「日記しのぶぐさ」でしたが、次は「日記」が取れた「しのぶぐさ」です。「しのぶぐさ」の表書年月は「六月」で、署名は「樋口なつ子」。きょうは、明治25年6月24日からです。

廿四日 半井ぬしの依頼にまかせて、畑島君(はたじまぎみ)に見すべき為の、尾崎紅葉紹介断(ことわ)りの文(ふみ)(1)を出す。
廿六日のタ(ゆふべ)帰宅す。国子の物がたりに聞けば、廿三日に半井ぬし、宅前(たくまへ)まで参られし由(よし)。折ふし来客ありしかば、憚(はばか)りてにや、立寄(たちより)もせで行かれたるとなり。今宵は家にとまる。
廿七日 今日は亡兄(なきあに)の命日也。西村君来訪されたるに、茶菓(さくわ)をもてなして談話(ものがたり)数刻。おのれは直(ただち)に小石河へゆく。
七月一日 俄(にはか)に師君思ひ立て鎌倉に趣かれんとす。同伴は田中君なり。小笠原、伊東の両君(ふたり)をも誘われたるものから、いづれも 障(さは)りあるよし。午前(ひるまへ)十時、家を出らる。留守居には西村の鶴どのとおのれなり。下婢(はした)二人と池田屋の妻(2)が、大方家(いへ)の内取(とり)まかなへば、鶴どのは取あつめて針(はり)し事(ごと)などなし置かんとす。おのれは来客の応接の外は他事もなきに、一意(いちい)著作に従事せんとす(3)。今日は終日、師君が路(ろ)ぢのほどいひ暮して、夜にも入りぬ。戸ざし早うして、みなみな一処(ひとところ)に寄りつどひて、もの語りどもなす。
二日 師君のもとより安着(あんちやく) の状来る。宿は長谷(はつせ)の三橋(みつはし)(4)なり。
三日 田辺君より我に文(ふみ)来る。さまざまあり。歌も有けり。
四日 師君より又、状来る。下宿がヘをされたるよし。八幡前(はちまんまへ)の三ツ橋支店へなり。「『中三ほどにて帰らむ』などの給ひしが、明日ならんか、明後日(あさつて)か」と指をる。
五日 午後(ひるすぎ)ニ時といふに帰宅されたり。やがて大雷雨。其タベ、暇(いとま)を乞(こひ)て我は家に帰る。
六日 小石河へ帰宅。帰路(かへりみち)、河村の女中に逢ふ。半井君の安否をとふに、河村の主人(あるじ)(5)病没したるよし。うし一人にて万(よろづ)の取まかなひに奔走いそがはしとかきく。此日、伊東君に手紙を出(いだ)す。
九日 鍋島邸(なべしまてい)に行幸あり(6)。師君参邸。午後十時頃帰宅。此日半井ぬしのもとに文(ふみ)を出す。
十日 同じく行啓あり。師君参邸せられんとす。おのれは明日、宅に事ありて、夫(それ)がもうけなさんとて暇(いとま)を乞ふ。西村の礼(れい)どの参る。是に諸事をゆづりて帰宅。直(ただち)に伊東君を訪(と)ふ。金子(きんす)借用せし也。


(1)
紅葉に会うことを断る意向を、畑島桃蹊に伝えるため、桃水に宛てた文面で記した書簡。桃水から依頼を受けたのは22日のようだ。桃蹊は、桃水と同じく朝日新聞社の記者。
(2)中島歌子の養家である加藤家が営み、水戸藩御用達宿でもあった「池田屋」。塾の隣にあったという。「妻」は、中島歌子の後見人だった加藤利右衛門の息子の嫁と考えられている。
(3)『都の花』のための執筆と考えられている。「経づくえ」を試作、趣向を変えて「うもれ木」を書いたという。
(4)江戸時代から大正12年まで長谷観音前交差点前にあった旅館。この間、三橋旅館本館をはじめ、別館や出張所、別荘など7施設以上を所有し、鎌倉で最大規模を誇った。田中みの子の「鎌倉紀行」によれば、伊東延子の紹介だったという。
(5)桃水の従妹である千賀が嫁いだ河村重固。
(6)最後の佐賀藩主で、侯爵、元老院議官などを務めた鍋島直大(1846-1921)の邸宅。夫人の栄子は中島歌子の門人。この日、天皇は午後1時半から250余人の来賓、鍋島家の一族らと撃剣、相撲、晩餐などで夜まで過ごし、翌日は皇后の行啓があったという。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。






《現代語訳例》
『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から


(六月) 二十四日。半井先生の依頼により、畑島桃蹊氏に見せるための、尾崎紅葉先生への紹介を断る手紙を出す。
二十六日。夕方になって萩の舎から家に帰る。邦子の話を聞くと、二十三日に半井先生が家の前まで来られたとか。丁度その時来客があったので、遠慮されたのか、立ち寄りもなさらず行かれたとのこと。今夜は家に泊る。
二十七日。今日は亡き兄の命日。西村氏が見えたので茶菓をさしあげてしばらく話す。私はすぐに小石川の萩の舎に帰る。

七月一日。急に中島先生は思い立って鎌倉に行かれようとなさる。お伴は田中みの子さん。小笠原艶子さん、伊東夏子さんもお誘いになったが、両人とも支障があるとか。午前十時に家を出られる。留守番は西村の鶴さんと私。下女二人と池田屋の加藤未亡人が大方の家事はまかなってくれるので、鶴さんはあれこれと縫物をされる。私はお客の応接の他は仕事もないので、もっぱら小説を書く。今日は一日中先生の旅程のことを話しているうちに夜になった。戸締りを早くして、みんな一つ所に集まっておしゃべりをする。
二日。先生から無事到着のお手紙が来る。お宿は長谷の三つ橋という旅館。
三日。田辺龍子さんから私に手紙が来る。いろいろと書いてある。歌もあった。
四日。先生からまたお手紙が来る。お宿を変えられたとか。八幡前の三つ橋支店へとのこと。三日滞在して帰ろうなどと言っておられたので、お帰りは明日だろうか、明後日かと指折り数える。
五日。午後二時になってお帰りになった。そのすぐあとに大雷雨。その夜はお暇を願って私は家に帰る。
六日。小石川の萩の舎へ帰る。途中で河村家の女中さんに逢う。半井先生のご様子をお聞きすると、河村のご主人が病気でお亡くなりになったとのこと。先生お一人で諸事の取りまかないのため忙しく走り廻っておられるとか。この日、伊東夏子さんに手紙を出す。
九日。鍋島侯爵邸に天皇のお出ましがあり、先生も参上なさる。午後十時頃帰宅。この日、半井先生のところへ手紙を出す。
十日。前日に同じく鍋島邸に皇后様のお出ましがある。先生も参上の予定。私は明日家に用事があり、その準備のためにお暇をお願いする。西村の礼さんが見えたので、一切を引きついで家に帰る。すぐに伊東さんを訪ねる。お金を借用したのです。

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