樋口一葉「日記しのぶぐさ」⑨
きょうは、明治25年6月22日のつづき。「日記しのぶぐさ」の最後の部分です。
「さりな ら何方(どちら)のロより世にもりけん。我が友などにもお前様のこと物がたりたる人もなきに、かくすにあらはるゝが常なればにや、人は我がしらぬ事までしる物也。されど、猶よくおもへば、畢竟(ひつきやう)は我罪かもしれず。先頃野々宮ぬしに物がたりの時、いはねばよかりしものを、我、思ふことつゝみかねて、お前様の事しきりにたゝえつ。『何と、嫁に行き給ふこと能はぬ御身分か。さらばよき聟君(むこぎみ)のお世話したし。我れ何ともして我家(わがや)を出ることあたふる身ならば、お嫌(いや)かしらず、しゐても貰ひていたゞき度(たき)ものよ』など、我れ実(じつ)はいひたり。夫(それ)や是(これ)や取あつめて、世にさまざまにいひふらすなるべし。今仰せられし様に、恩の義理のと、けがにもの給ふな。我は御前様よかれとてこそ身をも尽すなれ。御一身の御都合よき様(やう)が我にも本望也。今よりは可成(なるべく)吾家にお出(いで)あるな。さりとて丸でかき絶(たえ)給ふも少し人目をかしからんに、折ふしは音づれ給へ。とかくは御一人住(ず)みが悪るき也。我いつも申様(まうすやう)に、御身を定め給ひしかた宜(よろし)かるべし。今のうき名しばしき消(きゆ)るとも、我も君も生涯一人にて世を尽さんに、『ロ清うこそいへ、何とも知れた物ならず」など、尾ひれ添へられんかしるべからず。お前様嫁入し給ひしのち、我一人にてあらんとも、『哀(あはれ)、不びんや、女はちかひをも破りためるを、男はみ操(みさを)を守りて生涯かくてあるよ」などは、よもいふ人も侯はじ」とて、「はゝ」と打笑ふ。さまざまの物がたりして、「いざや帰らん」といへば、「先(まづ)今しばし宜(よろし)かるべし。今日は御(お)せん別(べつ)ぞかし。又いつの日、諸共(もろとも)に麁茶(そちや)(1)すゝり合ふこと有やなしや期し難きに、今しばししばし」とてもの語る。此人の心かねてより知らぬにしもあらねば、かう様(ざま)の事引出(ひきいだ)しつるにくさ限りなけれど、又世にさまざまにいひふらしたる友の心もいかにぞや(2)。信義なき人々とはいへ、誠(まこと)そら言(ごと)計り難きに、夫(それ)をしも信じ難し。あれと是(これ)とを比べて見るに、其偽(いつは)りに甲乙なけれど、獨(なほ)目の前に心は引かれて、此人のいふことごとに哀(あはれ)に悲しく、涙さへこぼれぬ。我ながら心よはしや。かゝるほどに国子迎ひに来る。家にてもいさゝかはうたがひなどするにやあらむ。打つれて帰る。
(1)粗茶。粗末な茶。茶を人にすすめるときにへりくだっていう。
(2)野々宮菊子を指している。菊子は、一葉の妹邦子や桃水の妹と親しく、家族ぐるみの付き合いをしていた。桃水に一葉を紹介したのも菊子である。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
更に語をついで、
「しかし一体、誰の口から世間に漏れたのだろう。私の友人にもあなたの事を話した者もいないのに、隠せは隠すほど現れるのが世の常だからでしょうか、世間の人というものは本人が知らない事までも知っているものです。しかし、なおよく考えてみると、結局は私の罪かもしれない。先日も野々宮菊子さんと話している時、言わねばよかったのに、私は思っていることを黙っていられなくて、あなたの事をしきりに褒めたのでした。それにしても、あなたはお嫁に行くことの出来ないお立場なのでしたか。それなら良いお聟さんのお世話をしたい、私が何とかしてこの家を出ることが出来る身の上なら、お嫌いか知らないが、無理にでも養子に貰っていただきたいものよなどと、私の心の中を言ってしまったのです。それやこれやが一緒になって、世間では色々に言いふらしているのでしょう。今おっしゃったように恩だとか義理だとかは、まちがってもおっしゃいますな。 私はあなたがよくなるようにと思って力を尽くしているのです。あなたご自身のご都合のよいことが私の心から願う所です。今からは、これまでのように私の家へはおいでなさいますな。といって、全く急にすっかりお見えにならないのも、かえって変に思われるでしょうから、時たまにはお訪ね下さい。ともかく独身でいらっしゃるのがよくないのです。私がいつも申しているように、ご結婚なさるのがよろしいのです。今立っている噂はやがて消えても、私もあなたも一生涯独身で通すならば、あの二人は口では綺麗な事を言っていても実際はどうだかわかったものではないと、尾ひれを付けて言われるかも知れません。また、あなたが嫁入りなさった後、私が独りでいたとしても、可哀相に女は約束も破ったようだが男は操を守って一生独身で押し通しているなどとは、よもや言う人もありますまい」
と言って大きくお笑いになる。いろいろのお話をして、さてお暇をしようとしますと、
「まあ、もう少し宜しいでしょう。今日はお別れの日です。またいつの日にご一緒にお茶を飲むことがありますかどうか、それもあてに出来ませんので、もうしばらく、もうしばらく」
とおっしゃって、話を続けられる。この人の心はかねてから知らない訳でもないが、このような噂の種をまかれたことは憎んでも余りある程ですが、また一方、世間にあれこれと言いふらした友達の心はどんな気持ちなのだろうか。世の中は信義のない人ばかりだとは言っても、真実か嘘かも判らずに言う噂などは、そのままに信ずる訳にもいかない。あれやこれや思い比べてみると、その偽りに甲乙の差はないけれど、やはり目前のことに心は引かれ、情に流され、先生のおっしゃることがすべて身に染みて悲しく、涙がこぼれるのでした。我ながら何とも心弱いことでした。こうしているうちに邦子が迎えに来る。家でも少しは私のことを疑っているのだろうか。一緒に帰る。
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