樋口一葉「日記しのぶぐさ」⑧

きょうは、明治25年6月22日のつづき。桃水についての悪いうわさについて語られます。


君、「何事ぞ何事ぞ」と問ひ給ふ。「いでや我が上の事のみならず、君様の御名もいとをしくてなん。実は、我がかく常に参り通ふこといかにしてもれにもれけん。親しき友などいへば更に、師の耳にもいつしかいりて、疑はるゝ処かは、『君様と我れ、まさしく事あり』と誰も誰も信ずめる。いひとかんとすれば、いとゞしくまつはりて、此無実の名晴るべきこれ時もあらじ。我身だに清からば、世の聞えはゞかるべきにも非ずとおもへど、誰は置きて、師の手前是(これ)によりてうとまれなどせられなば、一生のかきん(1)に成べき、それ愁はしう、と様(ざま)かうざまに案じつれど、我、君のもとに参り通ふ限りは人の口ふさぐこと難かるべし。依りて今しばしのほどは御目(おめ)にもかゝらじ、御声も聞じとぞおもふ。其こと申さんとて也。しかはあれど、我は愚直の性(たち)、かならずかならず、受参らせたる恩わするゝものには候はず。かゝること申出る心ぐるしさ推し給へ」といふ。大人(うし)も打あふぎて、「さる事成しか、さること成しか。我は又尠(かん)違ひをなし居たり。お前様、『余(よ)の男子(をとこ)に逢ふはいや也」とつねづね抑せられしかば、『紅葉に対面うるさしとて、夫故(それゆゑ)の御(お)と絶(だえ)か、さらずは此日頃、中島様御仲立(おなかだち)(2)などにて、しかるべき御縁や定まりたるならん』と、川村の老人(3)とも語り居(ゐ)し也。何はとまれ、夫(それ)は御迷惑の事出到(しゆつたう)したるもの哉(かな)。我は男の何ともなけれど、お前様嘸(さぞ)かし御困り、お察し申(まうす)也。さりながら、我は今更に驚きはせず、かゝる事いわれんとはかねて覚悟なり。先(まづ)、我を人にしていわせても見給へよ。『樋口様(さん)は此頃半井といふ人のもとへ時々に通ひ給ふよし。其男もまだ老朽(おいくち)たる人にも非ずとか、かつは一人住(ず)みにあんなるとか聞(きく)を、とし若き乙女(をとめ)の故なきにしもあらじ』と、此うたがひ立つは無理ならずして、何事なき我々二人が無理なるぞかし」とて事もなげに笑ふ。


(1)
瑕瑾。きず、汚点。特に、全体としてはすぐれている中で、惜しむべき小さな傷のことをいう。
(2)二者の間をとりもつこと。媒酌。「なかだての人の言ふに従ひて」(『狭衣物語』3)。
(3)桃水の従妹千賀の嫁ぎ先である河村重固の母。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から


「それは、君、一体何事ですか」
とお尋ねになる。
「それは私の名誉のためばかりでなく、先生のお名前を汚すことになるのが残念に思われるのです。実は私がこうしていつもお訪ねすることがどのようにして世間の人に知れたのでしょう、親し い友は勿論のこと、中島先生の耳にもいつの間にか入って、お疑いになるばかりでなく、あなた様と私の間にはたしかに特別な関係が出来ていると誰も誰も信じているようです。その説明をしようとしますと、益々話がこんがらがってきて、いつまでもこの無実の名を晴らすことはできないようです。自分自身さえ清らかであれば世間の評判など気にすべきでないと思っても、他の人はさておいて、中島先生からこのことで疎んぜられては、私にとって一生の傷になるでしょう。それが悲しくてあれこれと考えたのですが、私があなた様の所に出入りしている限りは、人々のロをふさぐことは出来ないでしょう。ですから、今しばらくの間はお目にもかからずお声も聞くまいと思うのです。そのことを申しあげようと思って今日はお訪ねしたのです。しかし私は愚かな者ではありますが、先生からお受けしたご恩は決して忘れるものではありません。こんな事を申しあげる心苦しさをお察し下さい」
と言う。先生もしみじみと顔をあげられて、
「そういう事でしたか。私はまた勘違いをしていました。あなたは他の男子に会うのはいやだといつもおっしゃっていたので、紅葉に会うのが煩わしいというので、そのための疎遠か、またはそうでなければ、このごろ中島様のお世話で立派なご縁がおきまりになったのだろうなどと河村の老母とも話していたのです。何にしてもそれはご迷惑な事が出て来たものですね。私は男だから何ともないが、あなた様はさぞかしお困りの事とお察し申します。しかし、私は今さら驚きは致しません。こういう事を言われようとは、かねてから覚悟していたのです。まず私に第三者の立場から言わせて下さい。樋口様はこのごろ半井とかいう人の所へ時々訪ねていらっしゃるとか、その男もまだ老いぼれた人でもないとか、また独り住居であると聞いているが、年の若い女性が訪ねるのは何か訳がないことはあるまいと、この疑いが起こるのは無理ではなくて、何事もない我々二人の方が無理なのですよ」
といとも気安く笑われ、

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