樋口一葉「日記しのぶぐさ」⑦
きょうは、明治25年6月16日から6月22日の途中までです。
十六日 田辺君参り合て種々(さまざま)もの語りす。半井君の事をいふ。此方(こなた)の縁を断ちて更に『都の花』(1)などにも筆を取らんといふ相談(はなし)也。久しう遊びて帰らる。
十七日 田中君参る。これにも半井君のものがたりす。打笑みながらき聞居(ききゐ)て、半疑の姿いとよく見えぬ。終日かたりて帰る。文(ふみ)したゝめて(2)伊東君へ送りもらひ度(たき)よし託(たく)す。
十八日 伊東君参られたり。百年の知己にて何のかくすべき事もなくて、思ふまゝにかたり、思ふまゝに無実を訴えて、君のみは実(まこと)にや受給ふと嬉し。
猶この末いと多かれど、あわたゞしき折にて書きもとゞめず。
廿二日 家に帰る。こゝにもさまざまに相談(はなし)して、さて半井うしのもとに返すべき書物もて行(ゆく)。折から日午前(ひるまえ)成しかば、君はまだ蚊屋の内にうまいし居給へり。ゆり起さんもさすがにて、しばしためらふほどに、ひる近く成ぬ。ふとめ目覚(めさま)して、「こは夏子どのか。浅ましき姿や御覧じけん。など起しては給はらざりしぞ 」といひつゝ、あわたゞしく起出給ひぬ。火桶(ひをけ)の左右に座をしめつゝ、ものがたりしめやかにす。情にもろきは我質(わがたち)なればにや、是を限りに今よりは参りがたしと思ふに、何ごとゝなく悲しくさへ成ぬ。伊東の夏子ぬし、さては我母君、妹(いもと)などのいへるにも、「書(かき)たえたる様にするはいとあしきこと也。其故よし審(つまび)らかに語りて、得心の上に交際(つきあひ)を断(たづ)ぞよき」といへるに、我も、しかせし方宜(よろし)かるべしと思へば、今日しも人気(ひとげ)なくつゝましきこといふにはいとよき折からなり。我しばしはいひも出(いで)ずうつぶきがち成しが、さりともいはではつべきならじと、いとせめてものがたり出づ。「例(ためし)しらぬにしもあらぬに、あたら御朝(おんあさ)ねの夢おどろかし奉る罪ふかけれど、申さで叶(かな)はぬ事ありて、かくは参り来つる也」といふ。
(1)明治21年から明治26年まで、金港堂から発行された文芸雑誌。
(2)小学館全集の注では「表書は六月十八日付にしてある。書簡には「私今日まで一重に桃水への義理を思ひ候故に折角の御心切をも無にしたるなれど先方にさる野心あるのみか跡もなきことを申ふらす様の事有ては何分暫時も師として仕る訳には参らずと存じ師の君の御高諭に従ひ一昨日先方へ参り断りの手段に相成申候云々」とある」とされている。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
十六日。 田辺龍子さんが見えて色々とお話する。半井先生のことを話す。半井先生との関係を断ち切って、新たに「都の花」などにも執筆しようという相談をする。長いこと遊んで帰られる。
十七日。田中みの子さんが見える。彼女にも半井先生のことを話す。微笑みながら聞いていて、私の絶交のことを半ば疑っておられる様子がはっきりと見えた。一日中話して帰られる。伊東夏子さんへ手紙を書いて、出してもらうよう頼む。
十八日。伊東夏子さんが見えた。百年の知己の彼女とは何一つ隠すこともなく、思うままに語り思うままに無実を訴える。この方だけは本気になって聞いて下さるようで嬉しい。なおこのことについては沢山のことがあるが、心せわしい折なのでとても書き尽くせない。
二十二日。 自宅に帰る。ここでも色々と相談して、さて半井先生の所へお返しする書物を持って行く。まだ午前中だったので先生は蚊帳の中でよく眠っておられた。揺り起こすのもどうかと思われて、しばらくためらっているうちに昼近くなった。ふと目を覚まされて、
「夏子さんじゃないですか。私のみっともない姿をご覧になったのでしょう。どうして起こして下さらなかったのですか」
と言いながら急いで起きて出て来られる。又鉢の左右に坐ってしんみりとお話をする。情にもろいのは私の本性なのでしょうか、今日を最後にこれからはお目にかかるまいと思うと、何となく悲しくさえなるのでした。伊東夏子さんやまた母上や妹などが言うには、ぷっつりと断ち切れたように別れるのはよくない、その訳を詳しく話してお互いに納得の上で別れるのがよいとのことで、私もその方がよかろうと思うので、今日は他には誰もいないので、気の引ける事を話すのには丁度都合のよい折でした。しばらくは言い出すことも出来ず、うつむいてばかりいたのですが、言わないですます訳にもいかないと決心して、思いきって話し出す。
「先生のご日常のことを存じあげない訳でもありませんのに、おやすみのところをお起こし致しまして、申し訳ございません。是非お話申しあげなくてはすまない事がありまして、こうして参った次第です」
と言う。
二十二日。 自宅に帰る。ここでも色々と相談して、さて半井先生の所へお返しする書物を持って行く。まだ午前中だったので先生は蚊帳の中でよく眠っておられた。揺り起こすのもどうかと思われて、しばらくためらっているうちに昼近くなった。ふと目を覚まされて、
「夏子さんじゃないですか。私のみっともない姿をご覧になったのでしょう。どうして起こして下さらなかったのですか」
と言いながら急いで起きて出て来られる。又鉢の左右に坐ってしんみりとお話をする。情にもろいのは私の本性なのでしょうか、今日を最後にこれからはお目にかかるまいと思うと、何となく悲しくさえなるのでした。伊東夏子さんやまた母上や妹などが言うには、ぷっつりと断ち切れたように別れるのはよくない、その訳を詳しく話してお互いに納得の上で別れるのがよいとのことで、私もその方がよかろうと思うので、今日は他には誰もいないので、気の引ける事を話すのには丁度都合のよい折でした。しばらくは言い出すことも出来ず、うつむいてばかりいたのですが、言わないですます訳にもいかないと決心して、思いきって話し出す。
「先生のご日常のことを存じあげない訳でもありませんのに、おやすみのところをお起こし致しまして、申し訳ございません。是非お話申しあげなくてはすまない事がありまして、こうして参った次第です」
と言う。
コメント
コメントを投稿