樋口一葉「日記しのぶぐさ」⑥
きょうは明治25年6月15日です。一葉は、紅葉への紹介を断わります。
十五日 午後(ひるすぎ)より半井君のもとへ至る。梅雨(さみだれ)降つゞく頃にて、いと侘し。うしがもとには、いと子君、伯母君(1)二処(ふたところ)居たるに、君は次の間の書室めきたる処に打ふし居給へり。雨のいたく降こめばにや、雨戸残りなくさしこめていと闇し。いと子の君、伯母なる人に向ひて、「御覧ぜよ。樋口様のお髪(ぐし)のよきこと。島田は実によく似合給へり」といへば、伯母君も、「実(げ)に左(さ)也実に左也。うしろ向きて見せ給へ。まことに昔しの御殿風(2)覚えて、 品のよき髷(まげ)の形哉(かたちかな)。我は今様の根の下りたる(3)はきらひ也」などいひ給ふ。半井君つと立(たち)て、「いざや、美くしう成り給ひし御姿みんに、余りもさし込(こめ)たる事よ」とて、雨戸二、三枚引(ひき)あく。「ロの悪き男かな」とて人々笑ふ。我もほゝ笑むものから、あのロより世に無き事やいひふらしつると思ふにくらしさに、我知らずにらまへもしつべし。我(われ)、師の君より教へられつる様に、ことつくろひてもの語りす。「師の君のもとに家の内取(とり)まかなふ人なく、我行き居(を)らでにもの毎(ごと)に不都台也とて、いとせめて頼まれぬ。さるを無下(むげ)にはなど断はらるべき。とし月の恩といひ、義理はくろがねの刃(やいば)も立(たた)ず。今しばらくは手伝ひ居らんとす。さすれば、いつぞや仰(おほせ)給はりし紅葉君(ぎみ)のことも、何も、先え寄りの事ならずは、折角(せつかく)御目通りしてからが、筆も取りがたくは其かひあるまじく、お前様へ不義理にも成り申べし。この事申さんとて、今日はいさゝかのひまもとめて参りつる也」といふ。「それは困りたるもの也。尾崎の方も万々(ばんばん)話しとゝのひて、『いつにてもあれ御目にかゝらん』といふとか。明日にも手紙にて、君に其通知せんと思ひしを、今に成て断りもいひ難し。いかにぞや、筆とることはとまれ、一度対面丈(だけ)なし置(おき)給はずや」といふ。「さりながら、御目通りせし上にて、『筆取りがたし』といはゞ、何の甲斐もあるまじ。我も色々心にかゝる事ありて物がたりには尽し難けれど、こゝにかしこに、いとものうるさく身を責(せむ)る頃なれば」といふ。「さらば先兎角(まづとにかく)、師の君に打明(うちあか)し給へよ。いつまで包み給ふとも、かくしおほせらるゝにもあらじ。其上にてよき考案(かんがヘ)つけらるゝぞよき。こゝにかしこに義理だて計し給ふとも、家計のことなどもあり、心を労し給ふほど人は察し申間敷(まうすまじき)に」などかたらる。常ならばしかば、いか計嬉しと聞く言の葉ならむ。今日は何となく上(うは)の空也。種々(さまざま)ものがたりの内に、我が心なぐさめんとにや、高島炭鉱のものがたり(4)などして笑はせんとす。何事ぞ聞きも入られず、暇(いとま)を乞(こう)て立つ。宅用少し有て菊坂へかへり、少時(しばし)にて小石河に帰りぬ。今日のあらましもの語りなどして、師の君よりさし図(づ)うけて、半井君のもとへ文(ふみ)を出(いだ)す。
(1)従姉妹の河村千賀子と河村重固の母。
(2)御殿女中がよく用いた片はずしと呼ばれる髪型と見られる。元禄以前の御殿女中は下げ髪だったが、束ねた下げ髪では勝手が悪いため下げ髪を笄(こうがい)で止めたもので、笄を抜くとすぐに下げ髪になる。
(3)島田髷の髪をあげて頭の上で一束にまとめ、根元を結んだ位置が後ろへ下がることをいっている。
(4)長崎県長崎市高島にあった炭鉱。「納屋制度」と呼ばれる過酷な雇用制度が取られ、「二度と帰れぬ鬼ヶ島」と恐れられ、会社と納屋頭による二重の搾取や非人間的な労働環境など、過酷な雇用形態は雑誌『日本人』に明治21年掲載された松岡好一の告発記事「高島炭鉱の惨状」などによって全国に知られるようになっていた。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
十五日。午後から半井先生のお宅へ行く。梅雨の降り続く頃でひどくわびしい思いがする。先生のお宅には従妹の方と伯母様の二人がおられた。先生は次の間の書斉らしい所に横になっておられた。雨がひどく降り込むからでしょう、雨戸がすっかり締めてあってひどく暗い。従妹さんが伯母様にむかって、
「ご覧なさい。樋口様のお髪(ぐし)の美しいこと。島田はほんとによくお似合いですこと」
と言われると、伯母様も、
「ほんとにそうですね。うしろを向いて見せて下さい。本当に昔の御殿風と見えて、上品な髷の形ですね。私は現代風の根の下がったのは嫌いです」
などと言われる。半井先生は急に立って、
「さあ、美しくおなりのお姿を見るには、戸を締め過ぎていますね」
と言って雨戸を二、三枚開けられる。ロの悪い男よと言って皆さん笑う。私も微笑みはしたものの、あのロから全く根も葉もない事を言いふらしたのかと思うと憎らしくて、思わずにらみつけたのでした。私は中島先生から教えられたよううに、別の理由を作ってお話する。
「中島先生のお宅で家のことをとりまかなう人がなく、私が行っていなくては何につけても不都合だから、と言って是非にと頼まれました。それどうしてお断り出来ましょう。長い年月のご恩という義理には鉄の刃も立ちません。今しばらくの間はお手伝いをしていようと思うのです。そこで、いつぞやお話下さった尾崎紅葉先生のことも、ずっと先になってからでないと出来ないようです。今お目にかかっても執筆出来ないようでは何の甲斐もないでしょう。また、 あなた様への不義理にもなることでしょう。このことを学しあげようと思って、今日は僅かの暇を見つけて参った次第です」
と言う。
「それはどうも困った事だ。尾崎の方でも話は全部ととのって、いつでもよいからお会いしようと言っているとか。明日にでも手紙であなたにその通知をしようかと思っていたのに、今さらお断りも出来ない次第です。どうでしょうか、執筆するしないは別として、一度会うだけは会っておきませんか」
と言われる。
「しかし、お目にかかっておきながら、執筆は出来ないと言うのでは何の甲斐もないでしょう。私にも色々と気になる事があって、ロでは申しあげることは出来ないのですが、あれこれとうるさくつらい事がある此頃ですから」
と言う。
「それならば、まず、そのことを中島先生に打ち明けてお話なさい。隱したとて、いつまでも隠しおおせるものでもないでしょう。その上でよい工夫をなさるのがよいでしょう。あちこちに義理だてばかりなさっても、家の経済の問題などもあり、お一人で苦労されるほどには他人は考えてはくれないものですよ」
などと話される。いつもだったらどんなにか嬉しいと思う言葉でしょうが、今日は何となく上の空のようです。色々のお話のうちに、私の心を慰めようと高島炭砿の話などして笑わせようとなさるのですが、それが何になりましょう。聞く気にもなれずお暇をして立つ。自宅の用事が少しあるので菊坂町の家へ帰り、しばらくしてから小石川の塾に帰った。今日の事の大体の様子をお話などして、先生のお指図を受けて半井先生のもとへ手紙を出す。
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