樋口一葉「日記しのぶぐさ」⑤
きょうは、明治25年6月14日の後半部分です。一葉が桃水の妻だ、といううわさについても記されています。
師の君、不審気(いぶかしげ)に我をまもりて、「扨(さて)は、其半井といふ人とそもじ、いまだ行末(ゆくすゑ)の約束など契りたるにては無きや」との給ふ。「こは何事ぞ。行末の約はさて置て、我いさゝかもさる心あるならず。師の君までまさなき事の給ふ哉(かな)」と口惜しきまでに打恨めば、「夫(それ)は実(まこと)か実か、真実、約束もなにもあらぬか」と問ひ極め給ふも悲しく、我(われ)七年のとし月傍(かたはら)近くありて(1)、 愚直の心と堅固の性(たち)は知らせ給ふ筈(はず)なるを、うたがひ給ふが恨めしく、人目なくは声立(こゑたて)ても泣かまほし。師の君さての給ふ、「実(じつ)は、その半井といふ人、 君のことを世に公(おほやけ)に『妻也』といひふらすよし(2)、さる人より我も聞ぬ。おのづから縁(ゑに)しありて、足下(そこもと)にも此事ゆるしたるならば、他人のいさめを入るべきにも非ず。もし全く其事なきならば、交際(つきあひ)せぬ方宣(よろしか)るべし」との給ふに、我一度(われひとたび)はあきれもしつ(3)、一度は驚きもしつ、ひたすら彼(か)の人にくゝつらく、哀(あはれ)、潔白の身に無き名おほせて世にしたり顔するなん、にくしともにくし。成らばうたがひを受けしこゝらの人の見る目の前にて、其しゝむらをさき肝(きも)を尽くして、 さて我心の清らけさをあらはし度し、とまで我は思へり。猶よく聞参らせで、田辺君、田中君なども此事を折々にかたりて、我が為いとをしがられしとか。さるは世の聞えもよろしからず、才(ざえ)の際(きは)なども高しともなき人なるに、「夏子ぬしが行末(ゆくすゑ)よ、いと気のどくなるものなれ」などいひ合へりしなりとか。是(これ)にロほどけて、師のもとに召使ふはしためなどのいふこと聞けば、此取沙汰(とりざた)聞しらぬものは此あたりになしといふほど、うき名立(たち)に立たるなりとか。浅ましとも浅まし。「明日はとく行(ゆき)て、半井へ断りの手段(てだて)に及ぶべし」など師君にも語る。臥床(ふしど)に入れど、などかは寐られん。
(1)一葉の父則義は、旧幕府奥医師・遠田澄庵の紹介で「萩の舎」を知り、明治19年8月20日に一葉は「萩の舎」に入門することになった、という。数えで「七年のとし月」ということになる。
(2)伊東夏子に宛てた6月17日付書簡に「猶よくよく承り合せ候ひしに例の桃水と申人その友人某とかに私を既婚の妻なる由物がたりしとか、夫より広まりし風説のよし」とあるという。
(3)伊東夏子「わが友樋口一葉のこと」(昭和16年9月)によると、「一葉さんは別に半井さんの奥さんになろうといふやうな気は全然なかつたものと存じます」という。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
先生はいぶかしそうに私を見つめなさって、
「それでは、その半井という人とあなたとはまだ将来の約束などはしていなかったのですか」とおっしゃる。
「それはまた、何ということをおっしゃるのですか。将来の約束どころか、私は全くそんな気持ちはないのです。先生までがありもしないことをおっしゃるなんて」
とくやしさに恨み言を申しあげると、
「それは本当なんですか。本当にそうなんですか。本当に約束も何もしていないのですか」
と問いつめなさるのも悲しいことでした。私は七年という年月、先生のお傍近くにいて、愚かではあっても人間が堅いことはよくご存知の筈なのに、お疑いになるとは全く恨めしく、人目がなかったら声をあげて泣きたいほどでした。さて先生は、
「実はその半井という人がおおっぴらにあなたを妻だと言いふらしているとのこと、ある人から私も聞きました。もしあの人とご縁があってあなたがそれを許しているのならば、他人の噂 などに耳を傾ける必要はありません。もし全くその事がないのなら交際はなさらぬ方がよいでしょう」
とおっしゃる。私は全くあきれて驚くばかりでした。それにしてもあの人が憎くてならない。 本当にこの潔白の身に無実の汚名をきせて、自分は世間に対して得意顔をしているとは、憎んでも憎みきれないほどです。出来ることなら、疑いを受けた多くの人達の前で、この肉を裂き、はらわたをさらけ出して、私の心の潔白さを現したいとまで思ったのでした。なお、先生のお話をよくお聞きすると、田辺龍子さんや田中みの子さんなども時々にはこの話をされて、 私の為に大変残念に思っておられたとか。
「あの人は世間の評判もよくなく、才能なども高くないのに、夏子さんの将来は本当にお気の毒なことよ」
などと話し合っておられたとか。先生のお宅のお手伝いさん達がすっかり気を許して話しているのなどを聞くと、この噂を知らない者はこのあたりには誰もいないというほど広がっていたとか。本当に浅ましい限りだ。明日になったら一番に出かけて行って、半井先生と絶交の話をしようと思うことなどを先生にも申しあげる。床に入ったがとても眠ることは出来ない。
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