樋口一葉「日記しのぶぐさ」④

きょうは、明治25年6月14日の前半部分です。桃水についての浮評や疑惑がつづられていきます。

十匹日 終日(ひねもす)倉子ぬし(1)と物語りす。是(これ)も又、 我を底にやうたがふ覧(らん)、 折々に侘(わび)めかしき詞(ことば)ども聞ゆ。いと不審(いぶかし)。今日は比人も帰られぬ。夜に入りては只(ただ)、西村の鶴どの(2)加藤の後家(ごけ)(3)、さては家内(うち)のはしため達の外、師の君と我を置(おき)て人もなし。もの(4)に寄り集(つど)ひて、世の中の物がたり共(ども)す。あやしうにごれる世のならひとて、聞え出ることごとにけがらはしからぬもなし。いづくの誰にはかゝる醜行(しうかう)あり、こゝの誰には何の汚行(をかう)聞ゆとか、常に見聞く友などの上につきても、にごりにしまぬ人少なげにいひはやす。聞(きく)と聞まゝに、人の上のみならず我がよ所(そ)の聞えも覚束(おぼつか)なく成て、席(むしろ)のはしに耳かたぶけ居(ゐ)し我、不図(ふと)師の君の前にいざり出ぬ。師は物語りやんで臥床(ふしど)に入らばやと身を起す時也。「師の君、しばし待たせ給へや。我少し問ひ参らせ度(たき)こと、聞え参らせ度ことどもあり。今宵聞て給はるべき哉(や)、はた明日(あす)になすべきにや」といふに、師の君やをら座を定めて、「何事の問(とひ)ぞ。今宵聞(きか)ん」との給ふ。「半井(なからゐ)うしのことは、かねて師にも聞かせまつりて、其人となりも身の行ひもいとよく知り給ふ上にて、我が行(ゆき)かひをも止(とど)め給はざりしなれば、我心に憚(はば)かる処いさゝかもあらず。先(まづ)かくかくしかじかに人の申(まうす)なむ、何の事と知らねど、或ひは半井のことに依りてにや侍らむ。もとより知らせ給ふ様に、我より願ひての交際(つきあひ)にも非(あら)ず。家の為(ため)、身のすぎわひの為、取る筆の力にとこそたのめ、外(ほか)に何のことあるならず。さるを、か様(やう)に人ごとなどのしげく成るなん、いと心ぐるし。哀(あはれ)、師の君の御考案(おかんがヘ)はいかにぞや。もしみ心にも、『こは交際(つきあひ)せぬ方宜(よか)るべし』など覚すことあらば、あきらかに仰せ聞けられてよ。我は我心(わがこころ)を信ずるまゝに、男女(なんによ)の別(わかち)をも思はず、世の人聞(ひとぎき)をも知(しら)ず、一向(ひたすら)にしたしうせしものから、 かへり見ればいと心安からず。いかさまにしていかさまにすべきにか、御教(おをし)へ給(たまは)らまほし」といふ。

(1)中島歌子の妹。
(2)中島家の縁戚、あるいは隣人と見られている。
(3)中島歌子の後見人だった池田屋の当主加藤利右衛門の未亡人。
(4)火鉢の類とみられる。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。






《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から


十四日。終日中島くら子さんとお話する。この方もまた私を心では疑っていらっしゃるのでしょうか、時々こちらがわびしくなるような言葉をおっしゃる。どうも変だ。今日はこのお方も自宅へ帰られた。夜になると、西村の鶴さん、加藤の未亡人、それにこの家のお手伝いさんたちだけで、先生と私以外には誰もいない。寄り集まって世間話をする。変に濁った世の中なので、話題になることはどれ一つとして汚らわしくないものはない。どこの誰にはこんな醜い行いがあり、ここの誰にはこんな汚れた噂があるとか、平生見聞きする友人などについても何らかの汚れのない人はないと言ったロぶりで話したてるのでした。聞くともなく聞いていると、 人の上のことばかりでなく私についての噂も気になって、隅の方で聞いていた私は思わず先生の前にいざり出たのでした。先生は、皆の話もすんだので、寝室へ行こうと身を起こされた時でした。
「先生、一寸お待ち下さい。少しお聞きしたい事、申しあげたい事があるのです。今夜聞いていただけますか、それとも明日にいたしましょうか」
と言うと、先生はおもむろに坐り直されて、
「何のお話でしょう。今夜お聞きしましょう」
とおっしゃる。
「半井先生のことは前からも先生にもお話申しあげて、その人格や素行のことも充分ご承知の上で、私の交際もおとめにならなかったのですから、私は心に気が引けるようなことは何一つなかったのです。ところが最近、人々があれこれと申していることは、何の事を言っているのか私には判りませんが、或いは半井先生との事が原因なのでしょうか。先生もご存知のように、私個人の気持ちで始めた交際ではないのです。家のため家計のための文学修業をこそ願っているのであって、それ以外には何もないのです。それなのに、こんなに人々の噂が広がったのは、本当に心苦しいことです。ほんとに先生はどうお考えなのでしょうか。もしお心にこれは交際しない方がよかろうとお思いのことがおありなら、はっきりとおっしゃって下さい。私は私の心を信じますので、男女の別ということもあまり考えず、世間の噂も気にかけず、ただ気楽に交際してきたのですが、かえりみればひどく気がかりです。どのようにすべきなのでしょうか。お教え願いたいものです」
と言う。

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