樋口一葉「日記しのぶぐさ」②
きょうは、明治25年6月4日から7日の4日間です。
四日 小出ぬしが催しにて桜雲台(あううんだい)(1)に何某(なにがし)の追善会ある日也。師の君の代りとして、おのれ行く。日中君と同車也。心こゝにあらねば、歌もえよめず。やがて帰る。(1)上野公園の中にあった料亭。
五日にからは柩(ひつぎ)に納めぬ。
六日の午後野辺(のべ)送り(2)の作法をす。祭主は春日何某(なにがし)成き。伊東夏子ぬしとおのれと、こしわき(3)の役をなす。師君も徒歩にてほう兵工廠(へいこうしやう)(4)前まで行給ふ。 これより車也。も服(ふく)にやつれ給へるさま、悲しともかなし。今日生憎(あいにく)に、 故松平慶永(よしなが)ぬし(5)が一週年の祭を星が岡(6)に行ひ給ふ日とて、宮内省出仕の人々(7)、さてはうた人(びと)中有名のたれかれなどは参り合されず。されど送る人は二百人に過(すぎ)たるべし。大方は夫人、令嬢計(ばかり)なりき。式場にての作法よりはじめて、墓処(8)に柩おさめ給ふまで、え書つゞけやらず。まして師の君の心いかならんかし。人々おのおの帰りさられぬ。師の君、はらから宇一君、くら子ぬしの二人、伊東君母子(おやこ)、みの子ぬし、おのれの八人、車をつらねて帰りつきしは日没近かりき。此人々もおのおの家に帰るに、おのれも又、半井うしのもとより「いふ事あり」との文もあり、「今宵計は」とて帰る。
(2)なきがらを埋葬場までつき従って送る行列や葬式。神式(神道)で行われたようだ。
(3)輿脇。ひつぎを載せた輿に付き添う人。
(4)東京砲兵工廠。陸軍所要の兵器を製造・修理する官営製造所。前身は江戸幕府の関口大砲製作場で、明治3年2月、兵部省造兵司の管理下に入り、翌年6月に小石川(東京都文京区)の旧水戸藩邸に工場を移した。
(5)号の松平春岳(1828 - 1890)で知られる幕末の福井藩主。将軍継嗣問題で一橋慶喜を推したため大老井伊直弼と対立し、隠居・謹慎を命ぜられた。井伊暗殺ののち許され、公武合体に尽力。維新後は、民部卿、大蔵卿などを歴任した。
(6)星ヶ岡茶寮。当時の麹町区永田町の日枝神社境内に属した小高い丘にあった茶寮。夜には星がよく見えたことから、星ヶ岡と呼ばれていたという。北大路魯山人にゆかりのある料亭として知られる。
(7)松平慶永が、麝香間祗候(じゃこうのましこう、華族・親任官や維新に功労のあった者に与えられた資格で、麝香の間に祗候し、天皇の相手などをした)だったころの関係者。
(8)谷中の天王寺墓地。
七日 「何は置て、半井うし訪(とう)て見よ」と母君もの給ふに、ひる少し過る頃より行く。例の従姉妹(いとこ)の君(9)もおられたり。おのれ、いつも取立(とりたて)たる髪など結はざりしを、島田といふものになして(10)有しかば、人々めづらしがる。「是よりは常に、かくておはせよかし。いとよく似合(にあひ)給ふを」などいわれて、中々に恥し。半井ぬし扨(さて)の給ふやう、「種々(いろいろ)に御事(おこと)多かる中を、さぞ出(いで)がたくやおはしけん。実は君が小説のことよ。さまざまに案じもしつるが、到底絵入の新聞(11)などには向き難くや侍らん。さるつてをやうやうに見付て、尾崎紅葉に君を引合せんとす。かれに依りて『読売』などにも筆とられなば、とく多かるべし。又、月々に極(き)めての収入なくは経済のことなどに心配多からんとて、是をもよくよく計らはんとす。されど夫(それ) も是(これ)も我は日かげの身、立出て何事かなし得べき。委細畑島にいとよくたのみて(12)、それが知人(しるひと) より頼み込(こま)せし也。此二日三日のほどに、君一度紅葉に逢ては見給はずや。もし其時に成て、『他人 に逢ふはいやなり』などいはれんがあやふくて、先(まづ)この事を申(まうす)也」との給ふ。「何事のいなか有べき。 いと辱(かたじけな)し」といふ。雑話さまざまにて帰る。直(ただら)に小石河へ到る。こゝは只、人々酔へる様(ゃう)也。
(9)河村千賀子。桃水の従妹の未亡人で、西方町に住んでいた。
(10)高島田(髻の根を高く上げて結った島田まげ)。むかしは御殿女中などの髪形だったが、明治以降、花嫁の正装となった。平常は銀杏返しを結っていたが幾子の葬儀などのため髪型を改めていた。
(11)挿絵入りの大衆小説を載せたり、男女の情事に関する話題を多く扱った新聞。
(12)朝日新聞社会部記者だった畑島桃蹊と尾崎紅葉の指導を受けた俳人星野麦人との間で交渉が進められ、麦人が紅葉に引き合わせようと具体的に手配したとみられる。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
四日は小出粲先生の主催で桜雲台である人の追善歌会がある日。中島先生の代理として私が行く。田中みの子さんと車に相乗りで行く。気持ちがこちらの方にはないので、歌も詠めずにすぐ帰る。
五日になきがらは柩に納めた。
六日の午後、作法に従って葬儀を行う。祭主は春日某という人でした。伊東夏子さんと私が輿脇の役をする。先生も徒歩で砲兵工廠前まで行かれる。それからは車になる。喪服姿でおやつれになった先生のご様子は何とも言えないほど悲しいものでした。今日はあいにくと、故松平慶永公の一局忌が星が岡で行われる日だというので、宮内省勤めの人々や、また歌人の中でも有名な人々は参列なさいませんでした。それでもお見送りの人々は二百名以上のようでした。大方は夫人か令嬢ばかりでした。式場での式次第を初めとしお墓に柩を納めなさるまでのことはとても書き尽くせません。まして先生のご心中はどんなにかお悲しいことでしょう。参列の方たちはそれぞれ帰って行かれた。中島先生とそのご兄妹の中島宇一氏、中島くら子さんのお二人、伊東夏子さんとその母上、田中みの子さん、それに私の七人が車を連ねて萩の舎に帰り着いたのは日暮れ近くでした。これらの人々もそれぞれ家に帰られたし、私もまた半井先生から話すことがあるとの手紙もあるので、今夜だけはと思って家に帰る。
七日。何は置いても半井先生をお訪ねしてみよと母上も言われるので、昼少し過ぎから行く。いつもの先生の従妹の方もおられた。私はいつもは特別の髪などは結っていなかったのですが、今日はお葬式のあととて島田に結っていたので皆さんが珍しがられる。
「これからはいつもこの髪になさい。大変よくお似合いですよ」
などと言われて、かえって恥ずかしい思いでした。
さて先生は、
「色々とご用が多い中なので、さぞおいでにくかったことでしょう。実はあなたの小説のことですが、色々と考えてもみたのですが、とうてい娯楽本位の絵入りの新聞などには似合わないように思われます。そこで、あるつてをやっと見つけて尾崎紅葉にあなたを紹介しようと思うのです。彼のカで読売新聞などにも小説を書くようになれば収入も多くなるでしょう。また毎月きまった収入がないと生活の上でも心配が多いでしょうから、このこともよく考えようと思うのです。しかしそれもこれも今の私は日陰の身なので、表だっては何も出来ないのです。すべて一切のことは畑島によく頼んで、その知人を通じて頼みこませたのです。この二、三日のうちに一度紅葉に会ってみませんか。もしその時になって、他人に会うのはいやだなどと言われるのが気がかりなので、まずこの事を中しあげるのです」
とおっしゃる。
「どうしてお断りする理由がありましょうか。大変有難いことです」
とご返事する。色々と雑談をして帰る。すぐに小石川に行く。ここは人々は皆茫然としておられる。
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