樋口一葉「日記しのぶぐさ」①
「日記しのぶぐさ」と表題のある日記に入ります。表書には「廿五年六月」、署名は「樋口なつ子」。きょうは、明治25年6月1日の記述です。
六月一日(1) 中島の老君(2)病(やまひ)いよいよあつしとて、我を迎ひの手紙来る。参りし頃は、はや物もの給ひやらず。常はうとき師の兄君(3)、さては其娘たちなど、枕もとに寄りつどひてすゝり啼(なき)し給ふさま、悲しともかなし。思へば廿八日の朝のことなり。咳(せき)にいたく苦しみ給ひしかば、我(われ)紙をもみて参らせたるに、病(や)みつかれし目かすかに開きて、「誰ぞや、夏どのか。我もこたびこそは生くまじう覚ゆるよ」と物心細くの給(たまへ)りしかば、「何としてさることか侍るべき。み心つよふ覚(おぼ)せ」などなぐさめし折、まだかく俄(にはか)になどは思はざりしをと、そゞろに我も涙ぐまれぬ。みの子ぬしも参られたり。「今日一日(いちにち)のうちもいかにやいかにや」と心もとながるほどに、夜にも入りぬ。医師は佐々木東洋君(とうやうぎみ)なれど、俄かのことのあらん時にとて、坂したなる矢島(4)といふをも頼み置く也。八時といふ頃より苦るしともなく息せわしく成て、身もだえし給ふこと限りなし。矢島参りて皮下注射(5)など二度(ふたた)び計(ばかり)したれど、露ほどもしるしなく、見る目いと侘し。師の君はまして心も心ならねばや、あと忱に立そひて、くれ惑ひ給ふさまことわりなり。十時といふ頃佐々木君も参られぬ。此頃より少したゆみ初(そめ)て(6)、暁(あかつき)がたまで我も人も静かならねど夢路に入りぬ。つぐの日もさして重(おも)るともなく、時々に身もだえはし給ふものから、と角(かく)暮したり。夜に入(いり)てよりは、いよいよ限りと覚(おぼ)しくて、手あしの置処(おきどころ)なげにみゆ。矢島にいたく請(こう)て、「いな、せじ」といふものから、皮下注射を更にしたり。それより唯ねぶりに眠(ねぶ)りて、三日の午前十一時といふに空(むな)しくなりぬ。みの子ぬしは、其日計(ばかり)家に帰りて折にあはず、いそぎ参られていと口惜しがる。房子君(7)も一(ひと)あしおくれにたり。此折のことども書(かか)んも中々なり。このほどの二日三日、ひるなく夜なく、立かはり入(いり)かはる人、さしも狭からぬ家ながら唯みちにみちて、いさゝかの間(ひま)もなし。夜るなどはみな寄りつどひて(8)、をかしき物がたりどもして、ねぶたさをまぎらはす。かゝる折にこそ、さまざまの人の心も知るべきながら、我(わが)見る目あざやかならず、聞く耳さとからねば甲斐なし。甲斐なしとしれど、又おのづからに目とまり耳に聞えなどする事種々(さまざま)なれど、さのみはとてなん。
(1)ここの日記は、中島歌子の塾に泊まりながら記されたと見られる。
(2)歌子の母、中島幾子。江戸通いの船で商売をしていた幕府御用達の豪商の家に生まれ、川越藩の奥に仕えていたこともあった。武蔵国入間郡森戸村の農民であり村名主でもあった中島又八に嫁いだ。
(3)川越の実家を相続した長男。後で「宇一君」として出てくる。
(4)安藤坂下(小石川区大和町)の開業医。
(5)皮膚の下にある脂肪組織へ薬を注入することで、ゆっくりと効果を発揮させる方法。
(6)気がゆるみはじめて。
(7)「萩の舎」門人の坂本房子。赤坂区氷川町に住んでいた。
(8)通夜。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
六月一日。中島歌子先生の母上のご病気が危篤だというので私に来るようにとの手紙が来る。私がお宅へ参った頃にははや物もおっしゃることも出来ない状態で、いつもは殆どお見えになったことのない先生の兄上やそのお嬢さん方が枕もとに寄り集まってすすり泣きしていらっしゃるご様子は本当に物悲しいものでした。思えば二十一日の朝のことでした。咳でとても苦しんでおられたので、私が紙をもんでさしあげると、病み疲れた目をかすかに開いて、
「どなたですか。夏子さんですか。私も今度ばかりはもう駄目のように思います」
と心細い声でおっしゃるので、
「どうしてそんなことがあるものですか。心を強くお持ちになって下さい」
とおなぐさめした時は、まだこんなに急になどとは思いもよらなかった事をと思うと、私も自然に涙ぐまれるのでした。
田中みの子さんも見えた。今日一日もどうであろうかと不安に思っているうちに夜になった。かかりつけの医師は佐々木東洋先生ですが、急な場合のためにといって安藤坂下の矢島という先生にも頼んであったのです。八時になった頃から、苦しいというようでもなくたた呼吸がせわしくなって、しきりに身もだえをなさるのでした。矢島先生が見えて皮下注射を二度ほどなさったが、露ほどの効き目もなく、見る目にも情けない思いでした。歌子先生はまして気が気でない思いなのでしょうか、枕もとに寄り添ってそわそわしていらっしゃるのももっともな事だと思われました。十時になった頃佐々木先生もお見えになった。この頃から病状が少し落着かれたので、明け方まで皆うとうとしたのでした。
次の日も病状が重くなるということもなく、時々身もだえはなさるものの、とにかくそんな状態で暮れたのでした。夜になってからは、いよいよもう最期と思われて、手足の置き所もないように見えた。矢島先生にお願いして、注射はしても同じだとはいうものの、皮下注射をさらにしてもらった。それからはただ眠りに眠って、三日 の午前十一時になった頃にお亡くなりになった。みの子さんはその日だけ家に帰っておられて臨終に間に合わずに、急いでやってこられてひどく残念がっておられた。坂本房子さんも一足遅れて見えた。この時のことをいちいち書き記そうと思っても書ききれるものではない。この二日三日というものは昼となく夜となく、人れ替り立ち替り弔問に見える人の数は大変なもので、さすがの広い家も人々で一杯になって、僅かの隙き間もない状態でした。夜などはみな寄り集まって話などして眠気をまぎらすのでした。こういう時にこそ本当の人の心というものがわかるのですが、私には見る眼も聞く耳もないので何の甲斐もない始末でした。何の甲斐もない事だとはいっても、自然と目にとまったり耳に聞こえてくることも色々とありましたが、それをいちいち書いても書ききれるものでもないので、やめにしました。
コメント
コメントを投稿