樋口一葉「につ記」④

きょうは、明治25年5月21日から。萩の舎と桃水についての関係についても語られています。

廿一日 小石川稽古也。早朝に行く。我小説のこと、田中君よりの物語りもあり、何とか答(いら)へなさずはわるかるべく、さりながら半井ぬしが種々懇(さまざまこん)とくなる言葉行為(ふるまひ)を思へば、是(これ)を捨て彼につくなん、義に於て不可なるべし。いか様(やう)にせんと計(ばかり)に師君にも相談をなす。「そは道理(ことわり)なり。しからば斯(かく)なさん」など仰(おほせ)給ふ。『むさし野』二巻(ふたまき)閲覧に供す。帰宅は日没。此夜野々宮君、 「教会よりの帰り也」とて一夜(ひとよ)の無心に参る。十一時頃まで談話(ものがたる)。
廿二日 野々宮君と種々(さまざま)ものがたる。半井うしの性情人物などを聞くに(1)、俄(にはか)に交際(つきあひ)をさへ断度(たちたく)なりぬ。さるものから、今はた病ひにくるし み給ふ折からといひ、いづくんぞよく斯(かか)ることいひもて行かるべき。快方を待(まち)てと心に思ふ。九時頃、野々宮ぬし帰宅。午後より又、半井君病気を訪(と)ふ。「朝鮮より友人両三名来たりし(2)」とかにて、此辺(このあたり)乱雑也けり。おのれ行たる故(ゆゑ)にや、人々は早かへりぬ。其こと由謂(いはれ)なきにもあらじ。今日は日曜なればにや、重太(しげた)君及び小田君参る。初(は)じめて果園氏(くわゑんうぢ)近づきになる。直(ただち)に帰宅。
廿三日 雨天。
廿四日 雨いたく降る。『九雲夢(クウンムン)』(3)書(かき)写す。十葉計(じふえふばかり)。
廿五日 雨いといとつよく降る。午前の内『九雲夢』十葉計(ばかり)うつして、夫(それ)より小説草稿にかゝる。今日の『改進新聞』に『むさしの』二編の評をのせたり。
廿六日 連日の雨晴(は)る。早朝より『九雲夢』書写す。
廿七日 大雨。「九雲夢』書写。比タベ半井君より手紙来る(4)
廿八日 晴たり。小石川稽古に行。しかるに老人(5)、昨夜より急病、生死おぼつかなしと聞く。「今日の稽古休み給はゞ」などいさめたれど、師の君聞(きき)給はず。終日(しゅうじつ)教へをたれ給ふ。医師(6)も来たる。「此分にては今が今にてもなかるべし」と也。おのれ、タつ方一先(ひとまづ)帰宅。「又参らん」とて也。帰家直(ただち)に半井君に趣く。病気見舞かつは返事すべきこと有て也。日没前かへる。藤田屋来たりて終日庭作りす。酒販を供して労にむくふ。此夜、長(ちやう)齢子ぬし(7)より借りたる『よみ売しん聞』小説「三人妻(さんにんづま)」(8)二十回計見る。
廿九日 早朝直(ただち)に小石川病人を訪(と)ふ。正午時(ひるどき)まで居る。此間(このあひだ)に小(を)がさ原(はら)家及(および)伊東老母(9)、見舞に来る。一時帰家して『九雲夢』少し写す。更にタがたより小石川へ行く。


(1)「萩の舎」の中島歌子や門人たちの勧めに動かされて、桃水から離れる気になりかけている状況が反映されているようだ。
(2)1884年12月4日に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター、甲申政変に失敗した金玉均(1851 - 1894)、朴泳孝(1861 - 1939)らが当時、日本に亡命していた。桃水は、朴泳孝と接触があったようだ。
(3)朝鮮、李朝中期(17世紀後半)の金万重によるハングル小説。衡山・蓮華峰に隠居している六観大師の弟子性真が、師の使いで洞庭湖の竜王のところへ行った帰り8人の仙女と相戯れて修行に身が入らず、仙女もろとも天界を追われる。人間界に還った性真は出世して8人の仙女と次々と結ばれ、享楽の日々を送るが、ある高僧の説法で悟りを開いて8人の夫人とともに昔に戻り極楽浄土に帰る。金が配所で母親を慰めるために作ったといわれ、人間の富貴栄華はうたかたの夢にすぎないというのが主題になっている。
(4)小学館全集の脚注には「生活の援護を約束していた桃水は、京橋区三十間堀2丁目1の回天社が出していた『回天』に書いた作品の原稿料を回すつもりであったが、同紙が休刊になったため、約束を果す見込みが危ぶまれると伝えている」とある。
(5)中島歌子の母、幾子。
(6)佐々木東洋(1839 - 1918)。西南の役に一等軍医正として活躍した後、神戸の脚気病院の主任を経て、東京神田に杏雲堂医院を開設。明治23年には東京医会を創立して会長となった。
(7)漢学者・書家、長三洲(1833 - 1895)の娘。三洲は、長門(山口県)萩藩の奇兵隊にはいるなど尊攘運動にしたがい、維新後は、文部省、宮内省などにつとめ、明治天皇に書道を指導するなどした。
(8)4月25日付の「明治閨秀美談」に「中島歌子」が載ったのを見るために借りたようだ。また、3月6日から5月10日付まで、尾崎紅葉の「三人妻」が掲載されていた。
(9)伊東延子。一葉の友人伊東夏子の母。親子で「萩の舎」の門人だった。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から



二十一日。小石川の稽古日。朝早くから行く。私の小説を出すことについて、前に田中みの子さんから話もあり、何とかお返事をしないわけにはいかないが、そうかと言って、半井先生の色々とご懇切なお言葉やお世話を思えば、先生を捨てて他につくというのは道義の上から考えてもとても出来ないことと思われる。どうしたらよかろうと思い、歌子先生にも相談をする。歌子先生は、それは当然で、ではこうしたらどうだろうなどとおっしゃる。「武蔵野」の第一号と野二号をお見せする。帰宅したのは日暮れでした。夜、野々宮菊子さんが教会からの帰りに 「一晩泊めて」といって見える。十二時頃まで話す。

二十二日。 野々宮さんと色々なことを話す。半井先生の性質や人物のことなどを聞くと、今すぐにも交際をお断りしたい気もするが、今はご病気で苦しんでいらっしゃる折でもあり、 そこへこんな話を持って行けようか。病気がよくなられてからのことにしようと心の中で思う。九時頃野々宮さんは帰られる。午後から半井先生のお見舞に行く。朝鮮からお友達がニ、 三人見えたとかで、部屋の中はちらかっていた。私がお訪ねしたからでしょうか、皆さんはすぐ帰られた。こんな態度をなさるのも何かわけがあってのことでしょうか。今日は日曜日のためか弟の茂太さんと小田果園氏が見えていた。小田氏には初めてお会いした。私もすぐ帰る。

二十三日。雨。 
二十四日。雨がひどく降る。「九雲夢」を写す。十枚ばかり。 
二十五日。雨がますますひどく降る。午前中に「九雲夢」を十枚ばかり写して、それから小説の原稿にかかる。今日の改進新聞に「武蔵野」第一・二号の評が載っていた。
二十六日。連日の雨もやっと晴れる。 朝早くから「九雲夢、  を写す。
二十七日。大雨。「九雲夢」を写す。夕方に半井先生からお手紙が来る。

二十八日。天気になる。小石川の稽古に行く。歌子先生の母上が昨夜から急病で、死ぬか生きるかのご容態と聞く。
「今日のお稽古はお休みになっては」
などと申し上げたのですが、先生はお聞き入れなく終日ご指導なさる。医師も見えて、
「この様子では今が今ということもなかろう」
と言われる。私は夕方に一まず帰宅する。これはすぐにまた来ようと思ってのこと。家に帰ってすぐ半井先生のお宅へ行く。病気のお見舞と、もう一つはご返事申すべきことがあったのです。日暮れ前に帰る。藤田屋が来て終日庭の手入れをする。お酒と食事を出してねぎらってやる。夜、長齢子さんから借りた読売新聞と小説「三人妻」を二十回分ばかり読む。
二十九日。朝早くすぐに小石川のご病人をお見舞する。正午頃までいる。その間に小笠原家からと伊東夏子さんの母上がお見舞に見える。一時に家へ帰り「九雲夢」を少し写す。またタ方から小石川へ行く。

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