樋口一葉「につ記」②

 「につ記」のつづき。きょうは明治25年4月19日からです。


十九日 晴天。今日の『改進新聞』配達が待遠(まちどほ)也。誰人(たれびと)か我が跡には出けんと見るに南翠(なんすい)外史(ぐわいし)(1)也。「あな嬉しや、大人(うし)の也けり。されば、我が身いか計(ばかり)大いそぎに端(はし)をりちゞめても、前後とも大人(うし)のなれば嬉し」といふ。今日は来客いと多し。鍛冶町(かぢちやう)石川及び菊池君奥方(2)など、近事見舞の礼(3)にとて来給へり。午前(ひるまへ)習字。午後(ひるすぎ)より小説本少しみる。著作にかゝる(4)桜井君(5)たのまれの詠草(えいさう)一冊書く。

(1)須藤南翠(1857 - 1920)。伊予(愛媛県)出身で、『改進新聞』の記者として活躍するかたわら新聞小説を手がけていた。この際には「非文人」が載った。一葉は、南翠を桃水の変名と思い違えたようである。

(2)神田区鍛冶町の蒲鉾製造商、遠州屋石川銀次郎と一葉の父則義が仕えていた菊池隆吉の妻の菊池政。銀次郎の父正助は、同郷の則義と親しく、則義が経済的に援助をしていたという。また、神田界隈に菊池家の分家があったとも見られている。
(3)明治25年4月10日午前、神田猿楽町で発生した大火の見舞と見られる。4000戸が焼失、24人が焼死、36人が負傷したという。
(4)「五月雨」の執筆と見られている。
(5)小学館全集の脚注によると、桜井鎌子。麹町区下2番町64に在住。一葉とは22年ごろから書簡を交わすなど、親しかった、という。

廿日 晴天。図書館へ書物見にゆく。太田南畝(6)藤井瀬斉(7)が随筆ども見る。明治女学校(8)の生徒及び駒場農学校(9)何某氏(なにがしうぢ)の妻、『刀部類写図』の模写に来られしに逢ふ。帰路(かへりみち)、広少路(ひろこうぢ)まで同伴す。満山の桜大方(おほかた)はうつろひたれど、流石(さすが)にまだ見る人は多かりき。日没少し前、家に帰る。
廿一日 曇天。午後(ひるすぎ)より大人(うし)のもとを訪ふ。『むさし野』来月分趣向につきてなりけり。畑島(はたじま)君も参り合されたり。種々(さまざま)物がたり。大人(うし)達の趣向の談合いとをもしろし。四時頃帰宅。此夜田中君より、明日小金井行の催し(10)ありとてはがき来る。夜、雨降出づ。

(6)江戸後期の狂歌師・戯作者の大田南畝(1749 - 1823)。別号は蜀山人、四方赤良。有能な幕臣で、広く交遊をもち、天明調狂歌の基礎を作った。編著『万載狂歌集』、咄本『鯛の味噌津』など。一葉の祖父八左衛門は、大田南畝引退後の狂歌界の中心人物だった鹿都部真顔の門に入り狂歌をたしなんだこともあり、樋口家の蔵書にこの種のものが多い。また、一葉の雑記録「やたらづけ」に、蜀山人の『仮名世説』の覚書がある。
(7)藤井懶斎(らんさい、1628 - 1709)江戸時代前期の儒者。真名部忠庵の名で筑後(福岡県)久留米藩の医師となる。その後、京都にでて山崎闇斎にまなび、朱子学の立場から仏教を批判した『和漢太平広記(閑際筆記)』(天明3年刊)をあらわした。閲覧したのは、この『和漢太平広記』と見られる。
(8)明治18年、木村熊二によって東京に設立され、41年に廃校となった私立の女学校。巖本善治のキリスト教精神に基づく近代的な教育が行なわれた。
(9)明治10年、東京・駒場に設けられた官立の農学校。23年に帝国大学農科大学に併合された。現在の東京大学農学部の前身。
(10)当時の東多摩郡小金井村の玉川上水堤は、桜並木で知られていた。

廿二日 今朝はいとよく晴たり。小金井行はいとうれしけれど、『むさし野』〆切(しめきり)日限もさしせまりたり。悠々(いういう)たる暇(いとま)なければ、やめになす。午後洗濯を少しなす。明日小石川稽古なれば、各評兼題(けんだい)など少し詠ず。
廿三日 晴天。小石川へ行。日就(につしう)社員鈴木光次郎氏(みつじらううぢ)(11)、師君履歴を探訪の為訪問。二階にて種々談話(ものがたり)あり。其間(そのあひだ)、島田政子君(12)と共に下座敷(したざしき)に語る。悲話縷々(るる)、思はず袖をぬらしぬ。他に何ごとなし。
廿四日 早朝、関(せき)君へはがきを出す。
廿五日 曇天。国子歯痛(はいた)の為、姉君と共に谷中坂町妙清寺(めうじやうじ)(13)内へ願(ぐわん)がけに行く。帰宅早々、跡かたもなく平癒(へいゆ)したりといふ。奇(ふしぎ)なる事也。小説、はじめて原稿にのぼす。日暮れより雨降り出づ。此夜母君に新小説よみて聞かし参らす。
廿六日より雨天。
廿七日
廿八日
廿九日まで小説一向(ひたすら)に尽力せしものから、出来上らず。終夜(よもすがら)従事。

(11)日就社は、読売新聞社の前身で、鈴木光次郎は読売新聞記者だった。この取材は、4月25日付読売に、明治閨秀美談シリーズ「中島歌子」として掲載された。
(12)毎日新聞主筆だった島田三郎の妻。夫との結婚生活が破局に達していたようだ。「われから」は政子をモデルにしたといわれる。
(13)正確には妙情寺。当時の下谷区谷中坂町にあり、寺内の戸隠祠は歯に関わる願がけで知られていた。



朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。







《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から

十九日。 晴。今日の改進新聞が待ち遠しい。誰が私の後に出るのだろうかと見ると、 須藤南翠氏でした。あゝ嬉しい、半井先生である。こういうことであれば、私の作品をどんなに端折って短くしても、私の前後とも先生の作品なので嬉しいという訳です。今日は来客がひどく多い。神田鍜治町の石川氏、菊池の奥方などが近火見舞のお礼にとて見えた。午前中は習字、午後より小説を少し読む。著作にかかる。桜井鎌子さんに頼まれた歌を一冊書く。

二十日。晴。図書館へ書物を見に行く。大田南畝、藤井懶斎の随筆など見る。明治女学校の生徒や駒場農学校の誰とかの奥さんが刀剣類の絵図の模写に来られたのに逢う。帰りは広小路まで一緒に帰る。上野の山の桜は殆ど盛りを過ぎていたが、さすがにまだ見物の人が多い  日暮れ少し前に家に帰る。

二十一日。曇。午後から半井先生のお宅を訪ねる。「武蔵野」の来月分の小説の構想のことについて教えを受けるためです。畑島氏も見えておられた。先生たちの小説の趣向についてのお話が大変面白い。四時頃に帰宅。夜、田中みの子さんから明日小金井行きの催しがあるというはがきが来る。夜になって雨が降り出す。

二十二日。今朝は大変よく晴れた。小金井行きはとても嬉しいけれど、「武蔵野」の〆切り日も近いし、のんびりする暇などないのでやめにする。午後、洗濯を少しする。明日は小石川の稽古日なので各評の題の歌など少し詠む。

二十三日。晴。小石川へ行く。 読売新聞社々員の鈴木光次郎氏が歌子先生の経歴取材のために来訪され、二階にて種々話される。その間、島田政子さんと下の座敷で話す。その悲しいお話に思わず袖を濡らしたのでした。

二十四日。 朝早く関場悦子さんにはがきを出す。

二十五日。曇。邦子が歯が痛いので、姉と谷中坂町妙情寺へ願かけに行く。帰ると早々に跡かたもなくすっかり癒ったという。不思議な事でした。新しい小説の原稿にかかる。日暮れより雨が降り出す。夜は母上に新刊の小説を読んでお聞かせする。

二十六日より雨。
二十七日。
二十八日。
ニ十九日まで専ら小説に努力してきたが出来上がらない。夜通しこのことにかかる。

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