樋口一葉「につ記」①
きょうから「につ記」と平仮名を使って記された記録に入ります。表紙の裏に、遠い将来に現在の自分を振り返るときを創造して記された序文につづき、明治25年4月18日から始まっています。
かまへて人にみすべきものならねど、立かへり我むかしををふに、あやふくも又ものぐるほしきこといと多なる、あやしう、 こと人みなば、「狂人(きちかひ)の処為(しわざ)」とやいふらむ。
四月十八日 雨天。午前之内に片町(かたまら)の大人(うし)がり行く。 此日頃、悩み給ふ所(1)おはす上に、何事にやあらむ立腹の気(け)にて、はかばか敷(しく)は物語も賜はらぬなむ心ぐるしければ、 いでや今日こそは御心取らんとて出(いで)たつ。小石道のいと悩ましきをからうじて行くに、河村君よりの下女(はした)、水など汲居(くみゐ)たり(2)。「大人(うし)は早(はや)、起出給へりや」と問ふに、うなづきてしるべをなす。例(いつも)の庭ロより書斎の椽(えん)にのぼるほど、大人出来給へり。
例(いつも)は、いとなつかしき物がたり種々(さまざま)して、帰るべき時なき様なるを、此頃はあやしう異人(ことひと)のやうに成給へり。「御病気はいかゞぞ」など問ふに、「少しは好し。されど頭(かしら)のいたきのみは困(こう)じ居(を)る也」とて、後脳(こうなう)のかたを、手してたゝき居給へり。「何方(どこ)も花ざかりと承るに、たれこめてのみおはすはなぞや」といへば、「日陰の身なれば」とてしほれぬ。「一昨日(をとつひ)の夜、上野の夜桜を行てみし計(ばかり)、飛鳥山(3)も墨田河も更に訪はず。さるにてもかく引籠(ひきこも)りのみ居れば、病ひも怠る時のなきにやと思びたれば、少し散歩をこゝろみなどしたるに、いよいよ頭(かしら)いたきやうなり。如何(いか)にせば宜(よ)かるべきにや。殆(ほとん)ど其策に困(くる)しみぬ。かくては遂に死ぬべきにやあらむ」など心細きことの給ふ。頭(かしら)うなだれがちに言葉少なく、それも此方(こなた)より問ひ奉らぬ以上更に更に物語なし。「『武蔵野』(4)一昨日(をとつひ)までに諸事し終りて、昨日発兌(はつだ)のつもり成しが、いかにしけむ、いまだ廻り来らず。此度(このたび)のはいづれもいづれも宜しからぬやうなり」などの給ふ。「おのれのは別しての無茶苦茶にて、嘸(さぞ)かし困(こう)じも怒りもし給ひけん。我師(わがし)中島とじ、常に会日(くわいび)其他にて弟子の詠歌(よみうた)よろしからぬ時は、いたく顔色わろき様也。大人(うし)にも同じごと、我が著作のあまりわろきに怒り給ひて、いとゞ御病気の重(おも)らせ給ふならずや。案じられ侍り」といへば、「いや、さることはあらず」と、事も無くの給ふ。「『むさしの』三 号の分は当月中に原稿廻し給へ」などの給ふ。「さるにても暇のなきなん健康上にいたく影響を及す也。『朝日新聞』の方も(5)明日より又執筆することになりたり。せめて一月(ひとつき)の猶予あらばよけれど、幸閑(かうかん)を得がたきが弱りきる也」など物がたらる。我れもいろいろいふこと有しが(6)、五月蠅(うるさ)げなるに遠慮して、そこそこに暇(いとま)ごひしぬ。されどもと止(とど)めんともし給はざりけり。 帰路怏々(きろあうあう)たのしまず。何ごとをかく計(ばかり)怒られけん。我れに少しも覚えなし。いかにせば昔しの如く成るべきにや。家に帰りてもこの事をのみいふ。母も妹も共にいたく案じぬ。母の給ふ、「夫(それ)も其筈(そのはず)ぞかし。世にも人にもかくれ給ふ身なればこそ、此花咲(はなさき)鳥うたふ春の日を、さゝやかなる家の内に暮したまふなる、いか計(ばかり)いか計心ぐるしからむ。まして花柳(くわりう)のちまたを朝夕の宿とし給ひしものが(7)、俄(にはか)にあし踏(ぶみ)だにし給ひ難ければ、そは道理(ことわり)也」などいふ。今日は何事のなすもなくて日を暮しぬ。
(1)このころ桃水は、痔疾を病んで床に就いていた。
(2)桃水が引っ越した西片町の家は、桃水の従妹千賀子の嫁ぎ先の河村家の離家だった。庭をまわって入るようになっていて、庭には井戸があったという。
(3)東京都北区、王子駅の南西側に接する台地。飛鳥神社があったのに由来し、桜の名所として知られる。元文2(1737)年に八代将軍吉宗が、当時旗本野間氏の所領であったこの地を石神井川のすぐ北の王子権現に寄進し、1000本をこえる桜を植えて一般に公開したのが桜の名所とされる始まりとされる。
(4)『武さし野』第二編。「たま襷」が掲載されている。奥付は四月十七日発行とされている。
(5)「胡砂吹く風」が、8日付で終り、次の掲載に向けて桃水は「鐘供養」の執筆に追われていた。
(6)小学館全集の注には「おそらく生活費の援助の約束がまだ果されていなかったのであろう。『改進新聞』の原稿料も受取っていなかった。」とある。
(7)家を空けて待合遊びをしていたものが。関場悦子から聞かされていた醜聞と見られている。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
決して人に見せるべきものではないが、 私の過去をふり返ってみるに、ほんとにあぶなっかしく狂気じみたことが多いことです。世間の人々は私のことを変な狂人のしわざと言うでしょうか。
四月十八日。雨。午前中に西片町の半井先生のお宅へ行く。このところご病気でお悩みの上に、何かご立腹の様子で、あまりお話もなさってくださらないのが心苦しいので、今日こそは何とかご機嫌をとろうと思って出かける。小石の多い道を苦労して行き着くと、河村家の女中さんが水を汲んでいた。
「先生はもうお目覚めですか」
と聞くと、うなずいて案内してくれる。例によって庭さきから書斎の縁側にあがるとき先生が出てこられた。いつもはなつかしいお話を色々となさって帰る時を忘れるほどなのに、此頃はすっかり別人のようになってしまわれた。
「ご病気はいかがですか」
とお尋ねすると、
「少しはよい。しかし頭の痛いのには全く閉ロです」
とおっしゃって、頭の後を手でたたいておられた。
「どこも花盛りだと聞いておりますのに、お部屋に籠ったままでいらっしゃるのはどういうお考えでしょうか」
と言うと、
「今は日陰の身だからね」
と言ってしおれていらっしゃる。
「一昨日(おとつい)の夜、上野の夜桜を見に行っただけで、飛鳥山も隅田川も全然行っていないのです。こう引き籠ってばかりでは、病気もかえってよくなるまいと思ったので少し散歩してみたのですが、ますます頭が痛むようです。どうすればよいのか、対策に苦しんでいるところです。こんな状態では死ぬのではなかろうかと思われるのです」
などと心細いことをおっしゃる。頭はいつもうなだれがちに、言葉も少なく、それもこちらからお尋ねしない限りは全然お話をなさらない。
「『武蔵野』第二号は一昨日までに全ての準備が終わって昨日発行の予定でしたが、どうした訳かまだ来ないのです。此度のはどの作品もどの作品もよくないようです」
などとおっしゃる。
「なかでも私のは特に無茶苦茶で、さぞかしお困りにもなりお怒りにもなったことでしょう。中島歌子先生も歌会その他で弟子たちの歌がよくない時にはひどく顔色がお悪いようです。先生もこれと同じで、私の作品があまりにも悪いのでお怒りになり、ご病気が重くおなりになったのではないでしょうか」
と言うと、
「いや、そんなことはない」
と事もなくおっしゃる。そして、
「『武蔵野』第三号の原稿は今月中に届けて下さいよ。それにしても、暇のないのは健康にひどく影響を及ぼすものですね。朝日新聞の方も明日からまた執筆です。せめて一カ月の暇があればよいのですが。ゆっくりした暇をとれないのが困った事です」
などと話される。私も色々とお話があったのですが、うるさそうなご様子に遠慮して、そこそこにお暇をする。先生も引きとめようともなさらなかった。
帰る途中も心は重かった。何をこれほど怒っておられるのだろう。私には少しも思いあたることがない。どうしたら昔のようになっていただけるのかしら。家に帰ってもこのことばかり言うのでした。母上も妹も共に心配してくれる。母上は、
「それもその筈ですよ。世間の人目を避けて隠れていらっしゃる身の上だからこそ、この花も咲き鳥も歌う春の日を、狭い家にこもってお暮らしになるのは、どれほどか心苦しいことでしょう。まして華やかな遊廓などに朝夕出入りしておられた方が、急に踏み入れることさえなさらないのだから、憂欝になられるのも道理というものですよ」
などと言われる。今日は何事もすることなくて過してしまった。
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