樋口一葉「日記」⑩

 きょうは明治25年3月27日から。「日記」の最後の部分です。

廿七日 午後(ひるすぎ)より半井君へ行く。「小説雑誌『むさし野』出版になりたり(1)」とて一本をあたへらる。「昨日の好事(よきこと)とは、君が別著の小説(2)『改進新聞』(3)に出さんとするの一事也」といふ。「あれ計(ばかり)はゆるし給へ。あまりといへば恥かしゝ」といひしに、「夫(それ)は困る也。すでに絵の注文をさへなしたれば」といわる。「更ばせんなし。いづ方(かた)にも」とて諾(だく)す。原稿、今一度校閲せんとて、我が方に引取る。作りかへんとて也。「『四十回になしくれよ』の頼みなれど、三十五回ほどにてよろし。先(まづ)はふん発(ぱつ)し給ヘとて渡さる。「今夜中に二回ほどお廻しありたし。廿九日より掲載の都合なれば」などの給ふ。了承して帰る。母君、兄君お大悦(おほよろこ)びの事。藤田屋来る。金一円かりて兄君に二円計かす。日没、兄君帰宅。比夜十時、二回分の校閲終りて、母君と共に半井君のもとへ行く。其夜は外に何もせず。
廿八日 朝来(あさより)小説にかゝる。三時頃、一日分丈(だけ)持参。二回分の画(ゑ)の注文をなす。帰宅日没。国子むかひに来て居たり。此夜なにごともなさず。
廿九日 『改進新聞』早朝にみる。 いまだ小説載すべき余地見えず。「明後日(あさつて)あたりよりならむ」といふ。『むさしの』ゝ広告出たり。何となく極(きま)りわろし。午前(ひるまへ)、水野君各評をよむ。午後(ひるすぎ)早々師君のもとへ持参、添刪(てんさく)をこふ。みの子君参り居らる。雑誌のこなしつけ、新聞の談(はなし)あり。帰宅匹時。夫(それ)より一日分丈(だけ)草す。半井君のもとへ持参せしは十時成し。今夜も国子同道。
卅日

(1)『武蔵野』第1編。小学館全集の脚注には「奥付は「明治廿五年三月十三日」が訂正されて「二十三日」となっているが、さらに数日延びて発行。発行所は日本橋区新和泉町一の今古堂。定価十銭。夏子(一葉)の埋草の代りに「両人の内どちらか罷出可申候」と題した正直正太郎(緑雨)の詫口上が載った。」とある。
(2)「別れ霜」の未定稿。人生の春を最後にはかなく消えてゆく二人の男女の運命をテーマにした戯作性の高い作品。『改進新聞』の明治25年3月31~4月10日、4月12日、14日~17日に掲載された。署名は「春日野しか子」。
(3)改進党の機関紙。「開花新聞」を改題して明治17年に創刊。フランス人画家、ビゴーによる風刺漫画などに人気があり、須藤南翠が政治小説を連載した。明治27年に終刊。発行所は京橋区南鞘町の三益社。

四月一日
四月五日 今日は水野君和歌小集の催し(4)ある日也。朝来晴天。半井師に約して、「今日は二回丈是非送らむ」といびし『改進新聞』原稿、未だ一回もしたゝめ終らず。困(こう)じ果てゝ、強(お)して著作に従事す。十一時に家を出んとするに、十時過るまで草稿したゝめ居(ゐ)たり。からうじて一回分書き終へたれば、いそぎ化粧などして家を出づ。詫(わび)がてら半井君のもとに行(ゆく)。同君留守。伯母の君(5)に言訳(いひわけ)申して、車をいそがせぬ。至り侍(はべり)しは一時近かりけん。来客早いと多かり。点取「夜帰雁(よるのきがん)」及び「野遊(のあそび)」成し。来会人数三十名計(ばかり)。酒肴(しゆかう)も中に三曲の合奏(6)あり。水野せん子君の琴声(きんせい)、心なき身にもそゞろにみみかたぶかれぬ。始(はじめ)は「小がう」(7)、次は「松竹梅」(8)、酒宴やんで又一曲、何といふ曲かしらねどいとおもしろかりし。散会(ひけ)は九時。車にて送らる。此夜二寺まで小説著作に従事す。
六日 曇天。早朝、庭の桃の枝を下ろす。奥田老人参らるべければ同人にやらんとて也。
(4)浅草区馬道町五丁目の水野家で行われた。
(5)半井桃水が身を寄せていた河村重固の母親。
(6)邦楽で、箏(そう)・三味線・尺八(または胡弓)の3種の楽器による合奏をいう。
(7)小督。正式には「小督の曲」という箏曲。横田岱翁作詞、山田検校作曲。「平家物語」に題材をとった山田流四つ物の一つで、気品の高い美しい曲として知られる。
(8)最古典曲は、江戸末期に大坂の三橋勾当(こうとう)が作曲。梅に鶯、松に鶴、竹に月を配した歌詞で、にぎやかな手事てごとがある。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から


二十七日。午後から半井先生のお宅へ行く。小説雑誌の「武蔵野」が出版になったと言って一冊いただく。昨日の良い事というのは、 私の別の小説を改進新聞に載せようとの事だとおっしゃる。
「あれだけはお許し下さい。あまりにも不出来で恥ずかしいのです」
と言うと、
「それでは困るのです。挿し絵の注文もしてしまったのです」
とおっしゃる。もう仕方がない、どうぞよろしくと承諾する。原稿をもう一度見たいといって返していただく。手を入れようと思っての事です。
「四十回にしてほしいとの頼みですが、三十五回ぐらいで結構でしょう。ともかく頑張りなさい」
といって返していただく。
「今夜中に、二回分ほどを届けて下さい。二十九日から掲載する予定ですから」
などとおっしゃる。承知して帰る。母上も兄も大よろこびのこと。藤田屋が来る。お金を一円借りて兄に二円ほど貸す。日が暮れてから兄は帰る。今夜十時、二回分の原稿の訂正をして母上と一緒に半井先生のお宅へ行く。今夜はこの他には何もしない。

二十八日。朝から小説のことにかゝる。三時頃一日分だけ持って行く。二回分の挿し絵の注文をする。帰宅は日暮れ。邦子が途中まで迎えに来ていた。今夜は何もしない。

二十九日。改進新聞を朝早く見る。まだ小説の欄はない。明後日あたりからであろうなどと家族の者と話す。「武蔵野」の広告が出ていた。何となくきまりが悪い。午前中は水野さんのお宅での歌会のための各評の歌を詠む。午後は早々に歌子先生の所へ持参して添削していただく。田中みの子さんが見えていた。雑誌の編集のことや新聞のことなどの話があった。帰宅は四時。それから一日分だけ小説を書き、半井先生のお宅へ持参したのは十時でした。今夜も邦子が一緒に同道してくれた。

三十日。
四月一日。
四月五日。今日は水野さんのお宅での歌会のある日。朝から晴。半井先生に約束して今日は二回分だけ必ずお送りすると言っていた改進新聞の原稿をまだ一回分も書いていない。困り果てて無理に書き始める。十一時には家を出ようというのに十時過きまでかかって、やっと一回分だけ書き終えたので、急いで化粧などして家を出る。お詫びがてら半井先生のお宅にお寄りする。先生はお留守。伯母様に言い訳を申してから車を急がせた。到着したのは一時近かったでしょう。来会者は沢山見えていた。点取りのお題は「夜帰雁」と「野遊」 でした。来会者の人数は三十名ほどでした。宴会の最中に三曲の合奏があり、水野銓子さんの琴の音には無風流な私も心を引かれ耳を傾けたのでした。初めは「小督」、 次は 「松竹梅」、宴会が終わってからまた一曲、何という曲か知らないが大変面白いものでした。散会は九時、車で送っていただく。今夜は二時まで小説をかく。

六日。曇。朝早く桃の枝をおろす。奥田老人が見えるはずなので、さしあげようと思っての事。

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