樋口一葉「日記」⑦
きょうは、明治25年3月24日の日記に入ります。かなりの長文です。
廿四日 大雨。文章あまりおもしろからねば(1)、春雨を詠ずる長歌になす。師君に一覧をこはんとて、大雨中(おおあめのなか)家を出づ。雨傘(あまがさ)といふもの一ツもなければ、小さやがなる洋傘にしのぎ行く。雨はたゞ、いる様にふるに、いと高き下駄の爪皮(つまかは)も(2)なきをはきて汚泥(どろんこ)なる道を行くに、困難なることおびたゞし。師君のもとへ参りつきし頃は、羽織もきものもひたぬれにぬれぬ。師君、二階の病床におはしき。もの語種々(がたりさまざま)。長歌添刪(てんさく)をこふ。談(はなし)文章のことに及ぶ。「おのれ日々日記を作るに、言文一致なるあり、和(やまと)めかしきあり、新聞躰(てい)(3)になるあり。かくては却(かへ)りて文(ふみ)の為(ため)に弊害とのみなりて、利は侍らずやあらむ」とて師の君の異見とひ参らす。「そは、一定の文則なくては、なさゞるかたぞよき。何にまれ、一(ひとつ)の方(かた)にしたがひてものせよ」などの給ふ。
「今のよの新聞屋文(しんぶんやぶん)といふものこそ、我がとらざる所なれ。さるものから、こも又一ツの道具にて、用なきにしもあらず。それはそれ、これはこれぞかし。すべて文(ふみ)にまれ歌にまれ、気骨といふものこそあらまほしけれ。さりながら、女といはんからに、常の行ひ姿形(なりかたち)をはじめて、物いふにも筆とるにも、なよやかなるを表(おもて)としたるぞよき。心の内にこそは、政(まつりごと)の成敗、天(あめ)がしたの興廃(こうはい)、さては文武の弛急(ちきふ)、何にまれ思ひいたらぬくまなくて、しかも形にはあらはさぬなん、誠(まこと)の女なる。しかはあれど、ひたすらにをしつゝみたるのみならましかば、つひによはきに流れて、はては心まで青柳(あをやぎ)のいとのごと成ぬべきなめり。たとへば、くろがねのまろがせ(4)を烟(けむり)の内につゝみたらん様なるがよきぞかし」などをしへ給ふ。ひる飯たべて、「少しまて、見すべきものあり」との給ふにぞ、しばし初心の人の詠草直しなどしてまつ。 蔵より一冊の手記と衣服(きもの)とを取出し来給へり。「ながきぬの、いたくなへたる様なるに、何某(なにがし)くれがしの会などさこそは困(こう)ずらめ。これもて行きて調じ直せよ」などの給はす。例(いつも)ながらにいとうれし。
(1)一葉は「春雨のふる夜に」という随筆風の小説を書こうとしていたとみられている。
(2)歯の非常に高い高下駄。歯は差し歯で、磨り減ると差し替える。「爪皮」は、雨や泥をよけるため、下駄の爪先につけるおおい。
(3)当時の新聞は、基本的に文語体だった。
(4)球のように丸めたもの、丸いかたまり。
二十匹日。大雨。どうも文章はあまり面白くないので、春雨を詠んだ長歌にする。まず歌子先生に見ていただこうと思って大雨の中を家を出る。雨傘が一本もないので小さな洋傘(こうもり)で行く。雨はまるで矢を射るように降り、爪皮もない高下駄をはいてぬかるみを行くので、歩きにくいことはなはだしい。先生の所へ着いた頃は羽織も着物もすぶ濡れでした。
先生はご不快で二階に寝ておられた。色々とお話をし、長歌の添削をお願いする。話が文章のことになったので、
「私は毎日日記を書いているのですが、言文一致のものもあれば、和文風のものもあり、新聞体の場合もあります。これではかえって文章の勉強には弊害ばかりで利はないのでしょうか」
と先生のご意見をお尋ねする。先生は、
「文体を一つにきめないのなら、むしろ書かない方がよい。何事でも一つのきまった方法でおやりなさい」
などとおっしゃる。また続けて、
「私は現代の新聞体の文章はとらないのです。然し、そうは言っても、これもまた一つの道具であって、決して無用のものではありません。それはそれ、これはこれで、それぞれに長所があります。すべて文章でも歌でも気骨というものがほしいものです。そうは言っても女というからには、普段の姿や行いを初めとして、話をする場合も文章を書く場合も優雅を表にしたのがよいものです。心の内では政治経済を思い、天下の興廃を思い、文化や軍事などまですべてに思いを巡らし、それでいて形には現さないのが本当の女の態度というものです。かといって、ただひたすら心の中に包んでいたのでは、弱くなってしまって、最後には心まで青柳の糸のように流されてしまうことになるでしょう。だから、例えば、鉄の塊を煙の内に包んだようなのがよいのですよ」
などと教えてくださる。
昼食の後、先生が、
「しばらくお待ちなさい。お見せするものがあるので」
とおっしゃるので、しばらく初心者の歌を直したりして待っていると、蔵から一冊の手記と着物とを取り出してこられた。
「あなたの着物がひどくくたびれているようなので、あちこちの会などに出席するのに、さぞお困りでしょう。これを持っていって縫い直しなさい」
などとおっしゃる。いつものことながら大変嬉しい思いでした。
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