樋口一葉「日記」⑥
きょうは、明治25年3月22日と23日の日記です。一葉は、図書館へ出かけるなどします。
廿二日 晴天。午前(ひるまへ)、習字及び著作(1)に従事す。ひる飯直(めしただち)に家を出づ。図書館行きの約束あればなり。かしこに至りて、「女のさる人や来たりし」と問へば、「さおはしたり。此下駄なめり」とてみするは、さらさ形(がた)ある皮のはな緒(2)也。「みの子ぬしなめり」と思へば、それと我との一(ひ)とつにして館(くわん)に入る。目録書(もくろくがき)の台(3)の上にしきりになにかしたゝめ居給ふは、思ひしごとみの子ぬし也。走り寄りて声(こわ)びくに挨拶(あいさつ)す。相携へて楼上婦人席(4)に入る。先に一人の閲覧人あり。医学の生徒ならん、『外科』といふ書籍を見居たりき。「田辺君はおはさぬのなるべし。あまりのことよ」などいひて笑ふ。いつもは大方朝よりなれば、午後(ひるすぎ)にはうみつかれて睡(ねむ)たくさへなるを、今日はみる間(ひま)露計(ばかり)にして閉館(5)のすゞの声す。「そゝや、追出されぬべし」とて笑ひながら室(へや)を出づ。男子(をのこ)のかた、一人の止(とど)まる人なかりし。徒歩(とほ)山内をぬけて広少路(ひろこうぢ)に出て、仲町(なかちやう)(6)にて、みの子君かひ物をし給ふ。小路を入りて、池之端に蓮玉(れんぎよく)(7)を味ふ。道々種々談話(みちみちさまざまものがたる)。中島師君の事などかたる。家に帰りつきしは日没成し。みの子君とは真砂町(まさごちやう)にて別れたり。伊東君より手紙来る。前日のことに付(つき)て也。国子に『日本外史』素読を授く。半井(なからゐ)君よりはがき来る。「明日参りくれ度し」とて也。今宵も、することなしに早くふしたり。
廿三日 曇天、少しあたゝけし。半井うしを午後(ひるすぎ)よりとふ。「『むさしの』ゝ表題の文字(8)書きくれ度(たし)」と也。しばしばいろひたれど、聞かるべくもあらねば、十字計(ばかり)しるしぬ。又、「『むさし野』巻末にのすべきもの少し計(ばかり)不足なれば、何にもあれ、明午後(あすひるすぎ)までに作り給てよ」などの給はす。雨少しこぼれ来ぬれば、いそぎかへる。直(ただち)に著作にかゝる。文章一篇草(さう)さんとて也。今宵、雨いとつよくふる。二時頃まで机辺(きへん)にあり。
(1)「たま襷」の執筆に励んでいた。
(2)「さらさ形」は、サラサに染めたような模様、サラサ模様のこと。ここでは、サラサ模様を捺染した革鼻緒を指している。
(3)小学館全集には「一階の目録備置所の目録書を置いてある台。当時、東京図書館の目録はカード式でなく冊子目録を用いた」とある。
(4)二階の婦人席。当時の図書館では、普通閲覧室は男性が利用し、女性が使えるのは婦人閲覧室に限られていた。つまり、図書館を女性が利用するのは普通ではない、と考えられていたことになる。
(5)3月の閉館時間は、4時半だったという。
(6)池之端仲町(現在の上野2丁目・池之端1丁目)。
(7)江戸後期創業のそば屋。信州伊那谷出身の久保田八十八が、池之端沿いに「蓮玉庵」を創業したのが始まりとされる。
(8)一葉の書によるタイトルは、第2編から用いられたという。
二十二日。晴。午前中は習字と書き物をする。昼食後、すぐ家を出る。図書館行きの約束があったからです。着いて、女のこういう人が来ていますかと尋ねると、
「見えています。この下駄のかたでしょう」
と言って見せてくれたのは更紗模様の革の鼻緒でした。みの子さんのものだと思ったので、それと私のとを一緒にして中へ入る。目録台の上で盛んに何か書いておられたのは思った通りみの子さんでした。走り寄って小さな声で挨拶する。一緒に二階の婦人席に入る。先に一人の閲覧者がいた。医学の学生でしょうか、外科という本を見ていた。田辺龍子さんは見えていないようだ。
「あんまりだわ」
などといって二人で笑う。いつもは朝から来るので午後には疲れて眠くなるのに、今日は閲覧の時間はわずかで、閉館のベルが鳴った。
「ゆっくりしてると、追い出されるわよ」
と言って、笑いながら部屋を出る。男子席の方はもう誰もいなかった。
帰りは歩いて上野の山を抜けて広小路へ出て、仲町でみの子さんが買物をされる。小道を入って池の端の蓮玉庵で蕎麦を食べる。帰路は色々と話す。中島子先生のことなど。家に着いたのは日暮れでした。みの子さんとは真砂町で別れた。伊東夏子さんより手紙、これは昨日話した事についてでした。邦子に日本外史の素読をしてやる。半井先生からはがきが来る。明日来てほしいとのこと。今夜も何もしないで寝る。
二十三日。曇。少し暖かい。半井先生を午後からお訪ねする。「武蔵野」の表紙の文字を書いてくれとおっしゃる。何度もお断りしたが承知してもらえないので十字ばかり書く。また「武蔵野」の巻末にのせるものが少し不足しているので、何でもよいから明日の午後までに書いてほしいとおっしゃる。雨が少し降り出してきたので急いで帰る。すぐさま書き始める。埋め草の一文を書こうと思ってである。今夜は雨がひどく降る。二時頃まで机に向かう。
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