樋口一葉「日記」⑤

きょうは、明治25年3月21日の日記です。桃水のキリスト教排斥についても記されています。
 

廿一日 晴天。望月何某(もらづきなにがし)の妻(1)来る。ひる飯馳走す。おのれは半井うしのもと(2)へ、いふことありて行く。今度(このた)びの住家(すまひ)のいと近くて、はい渡るほどなるがいと嬉し。表は例の戸ざし堅(かたく)して、庭ロよりぞ自由の出入はゆるしためる。物がたり種々(さまざま)。大人(うし)、「前日(さきのひ)の風邪猶よからず」とて、咳(せき)などいたくし給ふ。家にて相談せしこと、半井うしにもかたる。「おのれが小説、到底よに用いられまじきものなれば、つゝみなく断り給てよ。おのれはおのれの心を信ずるが如く、人の仰せられし言(ことば)を信ずるものなれば、君もし表面(うはべ)のみの賞詞(ほめことば)を下し給ふ共、其真偽(まこといつはり)ををし計るべき智(ちゑ)は侍らずかし。君が真意をえしらずして、一向(ひたすら)み詞(ことば)のみを頼み奉らんに、我が愚かさはさておきて、君いか計困(ばかりこう)じ給ふらむ。とても世に用いられまじきものなれば、今より直(ただち)に心をあらためて、我が身に応ずべきこと目論(もくろみ)候はん。只み心のうちを聞かせ給へてよ」とくり返すに、 君いたくあきれ顏して、「そは又何(なに)ぞの事ぞ。おのれ、かひなしといへども男のかたはし也。うけがひ参らせしこと偽(いつは)りならんや。月々に案じ日々にかうがへて、君が幸福(しやはせ)を願ふぞかし。我れはあくまでも相携へて始終(しじゆう)せんと思ふを、君はなどさ計(ばかり)にうたがひ給ふ。さりながら、これより他に良善の策向(さくむき)あらば、そは止め候はじ。なくは今しばしたえ給へ。我思ふに、君が著作、此『むさし野』両三回の後には、必らず世に名をしられ給はん。さすれば『朝日』にまれ、何にまれ、我れ周旋の方法(てだて)あり。家事の経済などに付(つい)て憂ひたまふとあらば、そはともかうも我(われ)すべし。『むさし野』初版より二千以上の発売あらば、利益の配当あるべきの約なれば、この分のみは我れのも合せて君に奉らんの心なり。か計(ばかり)に思ふ心偽(いつはり)ならんや。大方は察し給へ」などの給へり。
談(はなし)宗教のこと(3)に及ぶ。「過る日野々宮君(4)に約して、会堂へ行かばやと思ひしも、 障(さは)ることありて、はたさゞりし」といふ。大人(うし)、「そは、よき事を先(まづ)承りし哉(かな)。あやふかりしことよ。あたら御身、渦流(くわりう)に巻き入れられたまはん所なりし」とて歎じ給ふ。「そは何故(なにゆゑ)」といへば、君、縷々(るる)として教会の表面裏面(へうめんりめん)を述べ給ふ。「汚行、彼(あ)の如きあり、醜事、是の如きあり。牧師、状師(5)は恰も色情の教師の如く、集合する男女(なんによ)の信者は殆(ほとんど)其生徒に外(ほか)ならず」とて痛論し給ふ。「さりながら、 こはおのれが耶(や)そをいたく排斥する心より、 かゝる感も随ひて生ずるにや。大かたの教会かゝるにもあらざるべけれど、十中の七、八は其類(たぐひ)ならんと思ふを、真(まこと)に宗教に熱心におはせば甲斐なし。さらずは、先(まづ)、敬して遠ざけ給ふかたよかるべし」などの給ふ。後日を約して帰路につく。 四時成し。此夜入湯することなしに臥(ふ)したり。


(1)父の時代からの知人、望月米吉の妻とく。八百屋を営み、貧しくて樋口家からに援助を受けることもあったようだ。
(2)本郷区西片町。
(3)キリスト教のこと。
(4)妹・邦子との親交から家族ぐるみの付き合いをしていた野々宮菊子(1869 - 1922)は、プロテスタント教会に通っていた。
(5)「状」は物事のありさまを表わす。他人の訴訟の代理を仕事とする人、代言人や弁護士の類。ここでは、伝道師や副牧師のことか。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から

二十一日。晴。望月さんの奥さんが見える。お昼を出す。私は半井先生の所へ話したいことがあるので出かける。先生の此度のお宅はすぐ近くで這っても行けそうなのが嬉しい。表はいつものように戸をかたく閉めて、庭の方から自由に出入りが出来るようです。
色々とお話がある。先生は数日来の風邪がまだ思わしくないといって咳をひどくしておられる。家で相談したことを先生にもお話する。
「私の小説が到底世間に認められないものであるならば、どうぞお隠しにならずにお断り下さい。私は私の心を信ずるように、人の言葉も信ずるものですから、先生がもし表面だけでお褒めになっても、その真僞を見分けるだけの知恵がないのです。先生の本当の心を存じないで、お言葉だけをお頼りにしますと、私の愚かさはさておいて、先生の方がどんなにかお困りになるでしょう。私の小説がとても世の中に認められないものならば、今からでもすぐに心を改めて私にふさわしい事を考えましょう。先生の本当のお心のうちをお聞かせ下さい」
と繰り返し申し上げると、先生はひどくあきれた顔で、
「それは一体どういう事なんですか。私はつまらないとはいっても一個の男子です。お引き受け申したことは決して嘘ではありません。いつもいつもあなたの事を考え、あなたの幸福を願っているのですよ。私はあくまでもご一緒に行動しようと考えているのに、あなたはどうしてそんなにお疑いになるのですか。しかし、これよりほかにもっと良い方法があればおとめはしません。・・・・・・ないのならば今しばらく辛抱なさい。私が思うに、あなたの小説はこの『武蔵野』に二、三回載れば必ず世問に名前を知られるようになるでしょう。そうすれば、朝日にでも何にでも私がお世話する方法があります。また家庭の経済の面でご心配があるならば、それは私の方で何とかいたしましょう。『武蔵野』が初版から二千部以上売れたならば、利益の配当がある約束なので、この分だけは、私のも合わせてあなたにさしあげるつもりです。これほどまでに思っている私の心は決して嘘ではありません。大方はお察し下さい」
などとおっしゃる。話が宗教のことに及んで、私が、
「先日野々宮菊子さんと約束して教会へ行こうと思ったのですが、さしつかえが出来て行けませんでした」
と言うと、先生は、
「それはよい事をお聞きしました。本当にあぶないことでしたよ。もう少しで渦の中にまきこまれなさる所でしたね」
と心配しておっしゃる。
「それはどういう意味なのですか」
とお尋ねすると、先生は縷々として教会の表や裏のことを話される。こんな汚らわしい事もあれば、こんな醜い事もある。牧師たちはあたかもみだらな色情の教師のようなもので、集まる男女の信者たちは殆どその生徒にほかならない、としてはげしく非難なさる。そして、
「然し、これは、私がキリスト教を排斥する心からこんな感情が出てくるのかもしれません。全部の教会がすべてこんなだというのではないでしょうが、十のうち七つ八つまではこんなものだろうと思われるので、心から宗教に熱心でいらっしゃるのなら止むを得ませんが、でなかったら敬遠なさるのがよいでしょう」
などとおっしゃる。「またお訪ねします」 といって帰途につく。四時でした。今夜は風呂に行かずに寝る。 

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