樋口一葉「日記」③

きょうは、明治25年3月16日から18日まで。本妙寺で行われる種痘に出かけるところからはじまります。

十六日 晴天。一点の雲なし。「本妙寺(1)にて種痘(2)を行ふ」といふに、我もくに子も、「行かばや」とて支度をなす。両人(ふたり)の結髪(かみゆひ)を終りて、母君は奥田へ所用ありて趣き給ふ。おのれは『聖学自在』(3)通読。午後(ひるすぎ)早々、秀太郎と共に種痘に行く。外に何ごとなし。

(1)文京区本郷5丁目菊坂付近にあった徳栄山惣持院本妙寺。現在は豊島区巣鴨5丁目に移転している。俗に“振袖火事”といわれる明暦の大火(明暦3年)の火元になったことで知られる。
(2)痘瘡(ほうそう)の予防接種。 1796年にイギリスのジェンナーが初めてヒトに牛痘ウイルスを接種して免疫をつくることに成功してから改良が重ねられ、世界的に採用されるようになった。日本でも近年まで強制的に施行されていた。
(3)儒学者新井白蛾(1715 - 1792)の随筆集。全3巻86編。

 十七日 晴天。みの子君発会 (ほつくわい)也。十時頃より支度をなす。渡会(わたらひ)といふ人来る。稲葉君のことに付(つき)てしばらく談話(ものがたる)。 其中(そのうち)に西村君(4)来る。其人帰宅。おのれは直(ただち)に家を出づ。師の君のもとにて少し物がたりす。田中君へ行(ゆき)しは十一時過る頃なりけん。今日の来会者、子定より猶多く廿六、七名ありたり。点取題「朝雲雀」。重嶺(しげね)君、鶴久子君(5)の甲は伊東の夏子ぬし、三艸子(みさこ)君(6)の甲はおのれの成けり。諸君の退散されしは五時成けん。おのれも直(ただち)に車にておくらる。丘夜になに事もせずして臥(ふし)たり。

(4)樋口家と親戚同様のつき合いをしていた西村釧之助と見られる。
(5)歌人。蜂屋光世の妻。山田常典に師事し、夫の没後、その号鶴園にちなんで鶴と称した。
(6)松の門三艸子(1832 - 1914)。13歳で結婚したが、夫と死別。実家へ帰って井上文雄に和歌を学び、同門の大野貞子と共に桃桜とたたえられた。実家の没落後は深川芸者、晩年は歌塾を開き、人気歌人となった。

十八日 曇天。十時ごろよりは雨に成りぬ。姉君来訪さる。午後、関場君ならびに中島師のもとより手紙来る。この手紙につきて、近辺(ちかきほとり)なる、旧(もと)中島師かた婢女(はした)なりし今野たま(7)かたに行く。これが返事のはがきをしたゝむる程に、思ひがけず半井うし来訪し給ふ。あたりを取片付(とりかたづく)るなど大さわぎ成し。我家に来給ひしは実に始めてなればなり。母君ならびに国子にも初対面のあいさつなどなす。いとくだくだし。居(きよ)を本郷の西片町(8)に移し給ひしよし。「その報知(しらせ)がてら『むさしの』の事いはんとて也」といふ。「『むさしの』は種々延々(いろいろのびのび)になる事ありて、いよいよ明後(あさつて)廿日出版の都合なり。校正も廻り来たりしが(9)、我が転宅(ひつこし)の日成しかば、君のもとに廻さん日間(ひま)もなく、我れ代理をなしたるに近し。誤字脱字などあらばゆるし給へ」との給ふ。
茶菓(さくわ)を呈したる計(ばかり)にて二時間計ものがたらる。「今しばし」などいはまほしかりしが、いそぎ給へば、えとゞめあえず帰宅し給ふ。母君も国子もとりどりにうわさす。母君は、「実(げ)にうつくしき人哉。亡(なき)泉太郎(10)にも似たりし様にて温厚らしきことよ。誰は何といふとも、あしき人にはあらざるべし。いはゞ若旦那の風ある人なり」などの給ふ。国子は又、「そは母君の目違ひ也。表むきこそはやさしげなれ、あの笑(ゑ)む口元の可愛らしきなどが権謀家(けんぼうか)の奥の手なるべし。中々心はゆるしがたき人なり」などいふ。母君、「何はしかれ、半井うしが詞(ことば)に、『かく近くもなれるに他(ほか)には行く所もなし。夜分など運動(11)がてら折々に参るべければ』などいはれしこそ当惑なれ。人の目つまにもかゝれば正(まさ)なき名やたゝん」など杞憂し給ふ。国子さていふ、「とに角に家の狭きなん不都合なる(12)。あはれ、今一間(ひとま)あらましかば、か計に心ぐるしからまじ。いかでこの隣りなる家(13)こゝよりは少し広やかなるを、かしこに家移(やうつ)りせんはいかに」などいふ。 おのれ、「そは詮(せん)なきこと也。我が友とする人は家の狭さひろさ衣(きぬ)の鮮と弊とを(14)とはず、かざりなき調(ことば)、かざりなき心をもてこそ交らはめ。もし、『かしこは家せまし、衣(ころも)ふるびたり」とて捨(すつ)る人あらば、そはをしむにたらず」といふ。「それはそれながら、いかにもなれば心ぐるしきぞかし」とてくに子は笑ふ。今日の半井うしが着服(きもの)は、八丈の下着(15)茶とこんのたつ縞(じま)の紬(つむぎ)(16)の小袖(こそで)ををかさねて、白ちりめんの兵児(へこ)帯(17)ゆるやかに、黒八丈の(18)羽織をき下(くだ)し給へり。「人わろしと聞く新聞記者中(ちゆう)にかゝる風采(ふうさい)の人も有けり」と素人目(しろうとめ)には驚かれぬ。秀太郎来る。少し話して帰る。日没後国子に『日本外史』の素読(そどく)を授けて、さて『聖学自在』の「愚者の弁」一章(19)よみて聞かす。母君のかたをひねりてふさせ奉る。一時床に入る。
(7)一葉が図書館に行くとき途中で出会った今野はるの姉妹と見られている。
(8)本郷区西片町10。桃水の従妹千賀が嫁いで住んでいたため、ここへ引っ越してきた。
(9)「闇桜」の校正刷りと見られている。
(10)一葉には2人の兄がいたが、長兄が泉太郎。勉強好きだったが病弱で明治18年に明治法律学校に入学したが、20年に退学。同年12月27日に肺結核で死亡した。
(11)散歩。
(12)菊坂町70番地の家は、敷地の割に建坪が少なかったという。
(13)後に移り住んだ菊坂町69番地の家。小学館全集の脚注には「中島という夫婦が住んでいたが、盗難が多いので引越し、空家になっていた」とある。
(14)着物が美しいか、みすぼらしいか。
(15)八丈島産の植物染料で黄・鳶・黒などに絹糸を染めた平織りの絹織物である八丈絹で仕立てた襦袢。
(16)地糸に茶、縞糸に藍を染めた糸を用い、縦縞に織った手紬の絹布。
(17)白糸のちりめんのしぼ(織り糸のよりぐあいによって出す細かいちぢれ)を出した絹糸で仕立てた兵児帯。
(18)織目を高くして織った、厚手で黒染めの八丈絹。
(19)この章では食言家について論じている。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から

十六日。 晴。一点の雲もない。本妙寺で種痘があるというので私も邦子も行こうと思って支度をする。母上は私達の髪を結い終わってから奥田の所へ用事で行かれる。私は 「聖学自在」 を読み、午後早々に秀太郎と共に種痘に行く。他に何事もない。

十七日。 晴。 田中みの子さんの歌塾 「梅の舎(や)」 は今日発会。十時頃から行く用意をする。先日の渡会(わたらえ)という人がまた来る。稲葉氏のことについてしばらく話す。そのうちに西村釧之助さんが見える。その人が帰ったので私はすぐに出かける。途中、歌子先生の所でしばらくお話する。田中さんの所へ着いたのは十一時過ぎだったでしょうか。今日の来会者は予定より少し多く二十六、七名でした。点取りのお題は「朝の雲雀」。鈴木重嶺先生、 鶴久子先生から甲をいただいたのは伊東夏子さん。三艸子(みさこ)先生の甲は私でした。皆さんが帰られたのは五時でしたかしら。 私もすぐに車で送っていただいた。今夜は何もせずに寝てしまう。

十八日。 曇。十時頃から雨になる。姉上が見える。午後、関場えつ子さんと歌子先生から手紙。先生の手紙の用件で、近所に住むもと歌子先生宅の女中さんの今野たまさんの所に行く。この返事のはがきを書いている時に、 思いもかけず半井先生が訪ねて来られた。突然だったので、あたりを取り片付けるなど大騒ぎでした。私の家へおいでになったのは実に初めてのことでした。母上や邦子にも初対面の挨拶をなさるなど、くどくどしく大変な事でした。住居を本郷西片町に引越された由。
「引越しの知らせと、雑誌『武蔵野』の事を話そうと思って来たのです」
とおっしやる。
「『武蔵野』の発刊は色々な事情で延び延びになっていたのですが、いよいよ明後日ということになり、校正も廻って来たのですが、丁度私の引越しの日だっので、あなたの所に廻す時間もなく私が代ってしたので、もし誤字脱字があったらお許し願いたい」
とおっしゃる。お茶とお菓子をお出ししただけで、二時間ほど色々と話される。もう少しお留めしたかったのですが、お急ぎだったのでそれも出来ず、お帰りになった。
そのあと母上も邦子も色々と噂をする。母上は、
「ほんとに美しいお人だこと。亡き長男の泉太郎にも似て、温厚そうな人よ。誰が何と言おうとも、信頼出来ない人とは思われない。いわば若旦那の風格のある人だ」
と言われる。邦子はまた、
「それは母さんの見誤りですよ。表むきはやさしそうだけれど、あの徴笑むときのロもとの愛らしさがくせ者の奥の手なんですよ。なかなか心を許せない人ですよ」
などと言う。母上はまた、
「何はともあれ、半井先生のお言葉に、『近くなったことではあるし、他には行く所もないので、夜など運動がてら時にはお訪ねしますのでよろしく』などと言われたのは困ったことだ。人の目にでもたったらよくない噂が・・・・・・」
などと心配なさる。すると邦子は、
「とにかく家の狭いのが困るわ。あゝ、あと一間あったらこんな心配もせずにすむのに。このお隣の家はここよりは少し広そうなので、何とかして引越ししては」
などと言う。そこで私が、
「そんなことは無駄な事ですよ。私が友として付き合っている人は、家の狭い広い、着物の新しさ古さなどにはこだわらないで、飾りない言葉や飾りない心で、ありのままに交際しているのです。もし家が狭いとか着物が古くさいとか言って交際を捨てる人があったら、そんな人は全く惜しむに足りない人ですよ」
と言ったら、邦子は、
「それはその通りなんですがいざとなったら、その時はどんなにか心細いことでしょうよ」
と言って笑っている。
今日の半井先生のお着物は、八丈の下着に茶と紺の竪縞の紬の小袖を重ね、白縮緬の兵児帯をゆるく締め、黒八丈の羽織を着ておられた。人がらがあまりよくないと聞いている新聞記者の中にも、こんな風格の人もいたのかと、素人目には驚かされた事でした。秀太郎が来て少し話をして帰る。日が暮れてから邦子に日本外史の素読をさせ、また「聖学自在」の中の「愚者の弁」の一章を読んで聞かせる。母上の肩をもんであげてからやすませる。一時に寝る。

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