樋口一葉「日記」①

きょうから「日記」と書かれた冊子に入ります。表書年月は「三月」、署名は「樋口なつ子」とあります。きょうは、「につ記二」に続く明治25年3月12日。梅見の日が語られています。

十二日 日かげは薄けれど、晴なれば、梅見の催し実行すべき也。我が家(や)を出しは九時なりし。其際(そのきは)、三枝信一郎君参らる。師のもとにて一同そろふ。車を連ねて向島にわむかふ。おのれは一人馳せ抜けて、小梅によし田君を(1)いざなふ。既に趣かれし後(のち)なりき。臥龍梅(がりようばい)に六花の清楚たるを見て(2)、これより徒歩、江東梅(3)にむかふ。庭園広闊(くわうくわつ)、樹風愛すべく(4)、花は少しすがれたれど、花香(はなのか)の袖に移つて(5)、あやなき咎めをおひ給ふ君もなからずやと、をかし。奥の亭(ちん)に粗茗(そめい)(6) を味ひ、鶏卵(たまご)にうゑをやしなふなど、高等婦人(あてびと)のいかにめづらしく喜び給ふらむ。嬉々(きき)たるよろこびのこゑ、愛々たる真(まこと)の笑み、かゝる折にこそ人の情(なさけ)は見ゆるものなれ。この園(その)より車にて木下川(きねがは)(7)へ立おもむく。細流(さいりう)清くなみをうかべて、万頃(ばんけい)(8)の水田まだ返さず、折々に交る麦生(むぎふ)の青やかなるなど、造化(ざうくわ)が自(おのづから)の美を尽したる中を、徐々としてはこび行かれぬ。をううつ(9)たる老松の洒々(しやしや)たる間(ひま)に紅白の香花(かうくわ)すきて見ゆるは、こゝろざす林なりけれ。致りつきて見るに、入口にほそき鉄にて門を設けたる、「これ無からましかば」と恨み也。前の二園何方(いづれ)劣りたるならねど、このうちに入るに及んで、更にこゝの今一段まされるあるをしり得たり。花は今十分の香を放つて、万枝(ばんし)色ならざるなく、ことに雨後の天色朗々として、風なくあたゝかに、人は「あすの日曜を」と心に期すらむ。花下(くわか)不風流の洋杖(ステツキ)も見ず、くだ物の皮投打(なげうつ)て、あたら園内塵塚(ちりづか)にする輩(やから)もなく、たまたま見ゆるは一瓢(いつべう)に真意(まこと)を属(よ)せし十徳(10)出立(いでたち)か、遊猟(いうれふ)銃を肩にする青年あるのみ。小亭(あづまや)のほとりにて、三宮(さんのみや)君(11)の夫人同行にて遊覧したまふを見たり。暫時(しばらく)ありてこゝを出づ。かた山君のしきりに名残を惜しみかみしも給ふもをかし。この園、伊東君はいひ給へり、「紋付上下(かみしも)なり」と。げにその評や当れるべし。「今少し乱雑の植(うゑ)かたならましかば」と思ふ。狭きあぜ道を幾筋伝ひて、向島新梅屋敷(12)にいたる。こゝはいまだ早かりし。出る頃より天俄(にはか)に陰雲をもてとざゝれぬ。車をいそがせて木母寺植半楼(もくぼじうゑはんろう)にいたる。こゝに一酌(いつしやく)の間、遊戯種々(さまざま)あり。日没に及んで帰路につく。堤(つつみ)にて師君に別る。家に帰りつくころには、大雨(たいう)盆を返す様に成ぬ。


(1)隅田川のほとり、いまの東京スカイツリーの近くにあった旧小梅村。三囲稲荷や料亭小倉庵などで知られ、付近は梅の名所だった。明治22年の市町村合併で、本所区に組み込まれた。吉田縑子のいた吉田邸は、三囲神社の裏手にあった。
(2)龍が地をはうようなかたちをした臥龍梅の花が、くっきりと咲いたのを見て。
(3)亀戸の「梅屋敷」とみられる。江戸時代から続く梅の名所で、正式には、商人伊勢屋喜右衛門の別荘だった清香庵。300本もの梅の木が植えられ、とりわけ龍が地をはっているかのような形をした梅の古木「臥龍梅」が名高かった。明治43年、大雨で隅田川沿岸が水に浸った際、梅屋敷のすべての梅樹が枯れて廃園となった。
(4)樹木のかたちや枝ぶりが好ましく。
(5)「古今集」(巻1春歌上)に「梅のはなたちよるばかりありしより人のとがむる香にぞしみける」(よみ人しらず)。
(6) 粗茶のこと。「茗」は、お茶、茶の木の意。
(7)木下川(きねがわ)梅園。江東梅園から北へ1キロ余り。墨東で最も広く6000坪ともいわれる。江戸・文政年間の村名主・村越次郎兵衛が開園したという。
(8)「頃」は中国の地積の単位で、地面や水面が広々としているさまをいう。このあたりは、人力車から眺めた風景とみられる。
(9)蓊鬱。草木が盛んに茂るさま。
(10)室町時代に下級武士の着た、脇を縫った素襖(すおう)のこと。江戸時代には腰から下にひだをつけて、医師、儒者、絵師らの礼服となった。僧衣の「直綴(じきとつ)」の転とされる。
(11)三宮義胤(1844-1905)。岩倉具視の王政復古運動をたすけた尊攘運動家で、維新後は官吏となった。明治3年には東伏見宮嘉彰親王のイギリス留学に随行。10年からドイツ公使館に勤めて13年に帰国し、その後、宮内省式部長などをつとめた。
(12)向島百花園。江戸時代後期に開園し、当初は360本ほどの梅が植えられ、「新梅屋敷」と呼ばれて親しまれた。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から

(三月)十二日。日射しは淡いが晴れているので梅見は実施されるに違いない。家を出たのは九時でした。丁度その時に三枝(さいぐさ)信三郎氏が見えた。
萩の舎に全員が集まる。車を並べて向島に向かう。私は一人だけ先に行って小梅村の吉田かとり子さんを誘う。既に出かけられた後でした。まず亀井戸の臥龍梅の清楚な姿を見、そこから歩いて江東梅に向かう。ここは庭園が広々として樹々の風情もあり、花は少し盛りを過ぎていたが、香りは高く、その移り香が袖に残ってありもせぬ浮名のそしりを受ける人もあるのではないかと思われるほどの趣です。奥の方の茶店で田舎の茶を味わい、鶏卵を口にするなど、上流婦人にとってはどんなにか珍しく喜ばれたことでしょう。

嬉々として喜ぶ声、にこやかな心からの笑い、こんな時にこそ本当の心は見えるものでしょう。ここから車で木下川梅林へ行く。 小川の水は美しく波だち流れ、広々とした水田は刈りとったままで、あちこちには麦の若芽が見えるなど、造化の神が造り出した大自然の美しさの中を静かに車にゆられて行く。欝そうと茂った松の枯木の間に紅白の梅が見え隠れするのはめざす木下川梅林でした。着いてみると入口に細い鉄の門が造ってある。徒然草ではないが、これがなかったらと恨めしく思われたのでした。前の二つの梅園も何れ劣らぬ美しさでしたが、この中に入ってみると、ここがなお一層すはらしいことがわかった。梅花は今を盛りとかぐわしい香りを漂わせ、どの枝もどの枝も咲きほこって、とくに昨日の雨に洗われた天然の美しさはすばらしく、風もなく暖かで、人々は明日の日曜にはと心に期していることでしよう。今日は、花の下でステッキを振り廻したり、果物の皮を投げ棄てて園内を塵塚にする人もなく、たまに見えるのは一瓢の酒を携えた十徳姿の風流人か、または猟銃を肩にした青年だけ。茶店の近くで三宮氏が夫人同伴で来ていられるのを見かけた。しばらくしてここを出る。片山てる子さんがしきりに名残りを惜しまれたのももっともな事でした。

この梅園のことを伊東夏子さんは、まるで紋付上下(かみしも)姿のようだと言われたが、 その批評は当たっているようだ。もう少し乱雑な植え方であったらばよかったろうにと思われる。狭い畔道を幾筋も伝って向島の新梅屋敷に行く。ここはまだ花の時季には早かった。そこを出る頃から空は俄に黒雲で覆われてしまった。車を急がせて木母(もくぼ)寺境内の料亭植半(うえはん)楼に行く。ここで宴席を設け種々の遊戯をして楽しむ。日没頃に帰路につく。隅田川の堤で歌子先生に別れて、家に帰り着いた頃には盆を覆したような大雨になった。

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