樋口一葉「につ記二」⑨
きょうは、明治25年3月10日と11日。「につ記二」の最後の部分です。
十日 曇天。『武蔵野』雑誌次号に出すべき趣向のあらまし(1)、文(ふみ)して半井君へ送る。石井(2)へはがきを出す。明日の天気はいかならむ。哀(あはれ)、人は「好天気(かうてんき)なれかし」と待(まつ)らむものを、我為(わがため)には降てくれよかし。友といへど心に隔てある高等婦人(あてびと)の陪従(ばいじゆう)して、をかしからぬことに笑ひ、おもしろからねど喜ばねばならぬこそ、我が常に屑(いさぎよ)しとせざる所なるものを。植半(うゑはん)、八百松(やほまつ)の塩梅(あんばい)も(3)、我が為には何のものかは。母妹(ははいもと)を弊屋(へいをく)に残して、一片の魚肉にも猶あかせ奉らぬものを、亀井戸の梅林(4)香を分けて、橋本(5)に一ぱいの鯉こく(6)何(なに)うまかるべき。人の愉快とする所は我が暗涙(あんるい)をのむの所なり。「天ふれかし、心あらば」と打歎(うちなげ)かれぬ。今日は終日(ひねもす)心なやましくて、何の仕出したることもなくて日没に成りぬ。国子、関場君に復命(ふくめい)をもたらす。同家より『報知新聞』(7)かり来る。夜に入りてより、おもしろき小説、母君によみて聞かし奉る。其(その)うち雨降出づ。「万歳」ともとなへまほし。稲葉君妻、正朔(しやうさく)君同道、相談とて来る。此夜一泊。十二時床にいる。
十一日 起出てみれば妻戸(つまど)の際(きは)しろし。雪なりけり。「さこそは梅見と約せし人々の落胆(がつかり)し給ふらむ」など思ひやる。十時といふ頃より空は只晴(はれ)に晴にて、雪のとくること烟(けむ)りの如く消(きえ)て、 ひる頃には、「はや道もかわきつらむ」と覚ゆ。前島君(8)より手紙来る。「今日はもとよりながら、あすはいかゞ。道わなくとも参り給ふべきにや。君まで承(うけたまは) る」などありたり。おのれはやがてそを携(たづさ)へて、師の君許(がり)おもむく。こゝにて返書を出す。「晴天なれば明日参るべく」との也けり。初心の人の詠草直し(9)などして帰る。直(ただち)に関場君へはがきを出す。暫時(しばらく)して同家よりはがき来る。行違(ゆきちが)ひになりたる也。
(1)「うもれ木」や「たま簾」の構想とみられている。
(2)石井利兵衛。一葉の父則義が貸し付けた60円ほどを、月々返済していたという。
(3)「植半」は、木母寺の傍らにあった日本料理店。芋、蜆、玉子焼が名物だった。言問付近に支店が出来てから、本店は「奧の植半」、支店は「中の植半」と呼ばれた。ここにあるのは「奧の植半」とみられる。「八百松」は、隅田川神社の傍らにあった日本料理店で、焼鳥を呼び物とした。明治3年、枕橋のほとりに支店が新築され、本店は「水神の八百松」、支店は「枕橋の八百松」と称された。「塩梅」は、料理の味を調えること、味加減。
(4)かつて亀戸天神社の裏手にあった梅園。龍が大地に横たわったような「臥竜梅」で知られた。
(5)柳島橋西詰めにあった料亭。若鮎料理などが評判だった。
(6)鯉の濃漿(みそ汁を濃く煮込んだもの)。鯉を筒切りにして長時間煮込んだ、濃厚な味噌汁をいう。
(7)当時は『郵便報知新聞』が正式名。明治末から大正期にかけて、東京五大新聞の一角を占めた有力紙だった。
(8)前島武都子。日本近代郵便の父と呼ばれた前島密の娘で、前年10月に萩の舎に入門した。
(9)この日は金曜日だが、初心者のために通常の土曜日以外にも稽古日が設けられていた。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
十日。曇。「武蔵野」第二号に予定している小説の構想のあらましを書いて半井先生に送る。石井利兵衛氏にはがきを出す。明日の梅見の天気はどんなだろうか。あゝ、他の人々は、よい天気であれと待っているだろうに、私のためには、雨よ降れと祈る気持ちです。友といっても萩の舎に見える方々は、心の通わない上流階級のご婦人ばかり、そのお供をして、可笑しくもない事に笑ったり、面白くないことを喜ばねばならないのは、私の常日頃不愉快に思っている所です。高級料亭の「植半」や「八百松」のご馳走も私にはどんな意味があるというのだろう。母や妹を家に残して、一切れの魚も肉も十分さしあげたこともないのに、亀井戸天神での梅見のあと、料亭「橋本」での鯉こくも何がうまかろう。人が楽しみとする所は私にとっては悲しみの涙をのむ所です。もし天に心があるのなら雨を降らせて、と嘆くばかりでした。今日は一日中気がふさいで、何一つまとまった事もしないで日暮れになってしまった。邦子は関場悦子さんの所に報告に行く。報知新聞を借りて来たので、夜、面白い小説を母上に読んでお聞かせする。そのうちに雨が降り出した。「万歳!」 と言いたいほどの気持ちです。稲葉寛氏夫妻が正朔君をつれて相談事のために見えて一泊される。十二時に床に入る。
十一日。起きて見ると戸の隙間が白い。外は雪でした。梅見をあてにしていた人々はさぞかし落胆なさっただろうと思いやったりする。しかし十時頃から空はすっかり晴れ渡って雪も煙のように消え、昼頃には道も乾いてしまったと思われる。前島武都子さんから手紙が来る。
「今日の梅見の中止は当然でしょうが、明日はどうなるのでしょうか。明日実施するとなれば、道が悪くても実行なさるのでしょうか。あなた様はどうなさいますか。先生にお聞きするのは恥ずかしいので、あなた様にまで一寸お尋ねする次第です」
とある。私はこの手紙を持ってすぐに先生の所へ行く。そこで返事を書く。晴天ならば実施するという内容です。萩の舎では初心者の歌を直したりしてから帰る。すぐに関場さんにはがきを出す。しばらくすると同家からもはがきが来た。私の手紙と行き違いになったようです。
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