樋口一葉「につ記二」⑧

きょうは、明治25年3月7日の終盤から。妹が、関場悦子さんのところから『御伽草紙』を借りてきます。

「君が『闇桜』は小宮山(1)にもみせぬ。氏が説には、『むさしのは君が所有のぬしたるべし』となり。『一、二いふべき所も有しが、世の批評の為にとて遺(のこ)しおく』と氏はいへり。画は寅彦が意匠にて、年方にゑがゝするつもりなれば、左覚(さおぼ)せよ。君が姓名を表はさぬを床(ゆ)かしがりて、『いかなる人ぞ、見たし』など人々のさわぐがをかしきぞ」と例のの給ふ。「但し『武蔵野』は十五日発兌(はつだ)のつもり。次号の原稿は廿日過ぎまでに送られたし」との給へり。昨日の事なりし、国子が、「『いつはりの無き世なりせばいか計(ばかり)人の言(こと)の葉うれしからまし』の歌(2)を反対によみて給へ」といひしかば、「「偽(いつは)りのあるよなればぞかぐ計(ばかり)人のことの葉うれしかりける』といはゞいはなん」とて笑ひしが、大人(うし)が詞(ことば)に似合しきもをかし。三時にも成しかば、「又こそ」とて暇(いとま)を乞ふ。「今しばしよかるべし。何か馳走をなすべきに」など止め給ひしが、「空も漸(やうや)く雲深くなる様なれば」とて、しひて帰る。帰路(かへりみち)より段々に晴て、家へつくほどには一点のくもなくなりしもあやし。奥田老人参り居られたり。晩さんを馳走す。関場君(3)よりはがき来たり。国子に、「参りくれ度(た)し」とあれば、「何事かしれねど明日参り給へ」などいふ。難陳廻り来る。書うつして伊東君へ送る。此夜はいたく頭痛(かしらいた)みてたえがたければ早くふしたり。森川町(4)失火ありたり。 

(1)小宮山桂介(天香)。甲府観風新聞、魁新聞、大阪日報などで新聞記者として活躍。明治20年に東京朝日新聞の主筆としてむかえられ、「椿姫」「マダム・テレーズ」などの翻訳を発表。政治小説、翻訳小説家として知られた。
(2)古今和歌集(712)に「いつはりのなき世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまし」(詠み人知らず)
(3)関場悦子。邦子の友人で、愛媛県令などを務めた関 新平の娘で、外科医の関場不二彦と結婚した。
(4)いまの文京区本郷5丁目、6丁目あたり。由来は、江戸時代の森川宿に由来。明治5年に岡崎藩主本多氏の屋敷地と先手組屋敷跡を併せて、森川町と称せられることになったという。

八日 午前(ひるまへ)、くに、関場君へ行。ひる飯(めし)馳走に成りて午後(ひるすぎ)帰る。悦子君実家の妹(5)十歳なりとかいへるを、中島師のもとに入門させ度(たく)、紹介を依頼したしと也。同家(どうけ)より『御伽草紙(おとぎざうし)』上下(6)貸与さる。此日中(このひぢゆう)は何ごとの目立ちたる仕事もなくて、日ともしに成ぬ。風いとあらく吹き出づ。
九日 晴天。早朝より支度をなして小石川へ行く。月次会(つきなみくわい)なり。暫時(しばらく)ありて田中君まいらる。今日の来会者三十八、九名成し。島田政(まさ)君(7)も参られたり。点取題「野鶯(ののうぐひす)」にて重嶺(しげね)、恒久(つねひさ)、信綱(のぶつな)、安彦四君(よぎみ)(8)の点なり。恒久君の甲重嶺君、安彦君の甲恒久君、重嶺君甲安彦君成しかば、「こは誠(まこと)に詮(せん)なし」などいふ。信綱君の甲はおのれ成けり(9)。十一日梅見(うめみ)と定まる。相談種々(さまざま)。日没一同退散(たいさん)。関場君依頼一条、異議なくとゝのふ。
(5)悦子は、愛媛県令などを務めた関新平の妾腹の長女で、「妹」とは本妻の次女、藤子。
(6)今泉定介・畠山健校定『御伽草子』(明治24年4月、吉川半七発行)前、後編とみられる。
(7)島田政子。萩の舎の門人で、毎日新聞の主筆や衆議院議員など務めた島田三郎の妻だった。
(8)鈴木重嶺、江刺恒久、佐佐木信綱、加藤安彦。
(9)「姉のことども」(樋口邦子)によれば、佐佐木信綱は、一葉が松永政愛のもとで裁縫を学んでいたころからの知人とみられるという。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から

先生は 
「あなたの作品の『闇桜』は小宮山にも見せましたよ。彼の意見では『武蔵野』はあなたのものだと言ってもよいとのことでした。『闇桜』には一、 二意見もあるが世間の批評のために残しておくとも言っていましたよ。挿絵は寅彦の考えをもとにして兄の豊彦に描かせる予定だから、そう承知しておいて下さい。あなたの名前をまだ発表していないので、皆知りたがって、どんな人なのか見たいなどと騒いでいるのが面白いものです。ただし『武蔵野』第一号は十五日発行の予定です。それで第二号の原稿は二十日過ぎまでには送って下さい」
先生はいつものようにさらりとおっしゃるのでした。

昨日のことでした。 邦子が、
 いつはりの無き世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまし
という古今集の歌を反対にして詠んでほしい、というので、
 偽りのある世なればぞかくばかり人の言の葉うれしかりける
とでも言えば言えるでしょう、と笑ったことでしたが、この替え歌の意味は半井先生の日頃のお言葉にびったりだと思われて、感銘深く感じたのでした。
三時にもなったので、ではと言ってお暇をする。
「もうしばらくお待ちなさい。何かご馳走でもしますから」
とお止めになったが、「空もしだいに雲が深くなるようですから」と言って無理にお暇をする。帰路はしだいに空が晴れてきて家に着く頃には一点の雲もなくなってしまったのは不思議なことでした。 
帰ったら奥田老人が見えていた。夕食を出す。関場悦子さんからはがきが来る。邦子に来てほしいとあるので、どういう用件かわからないが、「とにかく明日行きなさい」 などと話す。難陳の歌稿が廻って来る。書き写して伊東夏子さんへ送る。今夜はひどく頭痛がして我慢できない程なので早く寝る。隣町の森川町でちょっとした火事があった。

八日。午前邦子は関場悦子さんの所へ行く。昼食をご馳走になって午後帰ってくる。悦子さんの実家の妹さんで十歳の人を中島先生の萩の舎に入門させたいので紹介を願いたいとのこと。関場さんの所から御伽草子上下二冊を借りてくる。これといった仕事もしないうちに灯ともし頃になってしまった。風が荒々しく吹き出す。

九日。晴。朝早くから仕度をして萩の舎へ行く。今日は月例会です。しばらくすると田中みの子さんが見える。出席者は三十八、九名でした。島田政子さんも見える。点取りの題は「野の鶯」で、鈴木重嶺、江刺恒久、佐々木信綱、加藤安彦の四先生が点者でした。恒久先生採点の甲は重嶺先生の歌、安彦先生の甲は恒久先生、重嶺先生の甲は安彦先生でしたので、これではつまらなくて意味がない事だなどと皆で話す。しかし信綱先生の甲は私の歌でした。十一日に梅見ときまる。このことで色々と相談する。日が暮れてから皆帰る。関場悦子さん依頼の妹さんの入門は異議なくきまる。

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