樋口一葉「につ記二」⑦
きょうは、明治25年3月7日の途中からです。桃水らが進めている雑誌『武蔵野』のことに話が及びます。
さても今日午前(ひるまへ)はなすことなしに終りて、昼飯(ひるめし)たゞちに糀(かうぢ)町へと趣く。「我が半井うしへ行時(ゆくとき)として、雨天か風かにあらぬは無し。今日こそ例(いつも)にも違(たがひ)しなれ」など笑ひ居(ゐ)しに、家を立出る頃より雲俄(にはか)にさわぎ初(そ)めて、九段坂のあたりより、あられまじりに雨すさまじく成りぬ。君のもとへつきしは一時過る頃成しが、門(かど)の戸押せどもあかず。「例(いつも)の朝寐しておはすなるべし」とおもへば、かろうじて明(あけ)て入りぬ。みれば火桶に火あかくして湯などもたぎり居るに、うしは見え給はず。「こはあしきことしてけり。留守なる所に」とも思ひつれど、其まゝに帰らんも残りをしくて、しばしあるに、帰り来給へり。「湯あみに趣きしなり」とて、いたく詫(わび)給ふ。先頃の人(1)も居りたり。談(ものがたり)『むさしの』のことに及ぶ。「連中に種々(いろいろ)さわりありて、発兌(はつだ)の日数(ひかず)かく計には延(のび)たれど、熱心の度(ど)は実に非常なるものにて、柳塢(りうう)亭寅彦(2)の如きは、「原稿に金を添(そへ)てまで出したし』との意気組なり。其外(そのほか)、右田(みぎた)年方(3)は画(ゑ)の寄付をなし、板木(はんぎ)師は『木の代丈(だけ)も送らむ』といひしを堅く辞したり。『小説雑誌の発兌、日に月にしげくして、浜の真砂(4)たゞならねど、かく計(ばかり)熱心なるは未(ま)だ見し事も聞しこともあらず』と書肆(ほんや)もいへり。
(1)畑島一郎(号は畑島桃蹊)。東京朝日新聞の社会部記者をしていた。
(2)本名は、右田寅彦(1866 - 1920)。めざまし新聞や都新聞で戯曲の脚本、艶種などを執筆した後、東京朝日新聞に入社して小説などを書いた。
(3)正しくは、右田年英(1863 - 1925)。月岡芳年に浮世絵をまなび、東京朝日新聞などの挿絵をえがいた。錦絵で戦争画や美人画も制作している。寅彦は弟。
(4)浜辺の砂。数が多くて数えきれないところから、無数・無限であることをたとえている。万葉集(4・596)に「八百日行く浜之沙(はまのまなご)も吾が恋にあに益(まさ)らじか沖つ島守」。
此上は諸新聞にて広告料丈寄付になし、いんさつの職工が手間料を無代(ただ)にし、数万の観客が、定価の上に幾分の義(ぎ)けんをなすにさへいたらば、真(まこと)に『武さしの』万歳なるべし」と大笑し給ふに、おのれも今一人もたえず笑ふ。大人(うし)また、「『都の花』(5)も二千五百、『難波がた』(6)も二千五百の売れ高なれば、我『むさしの』は五千ほど世に流布させ度(た)し」との給ふ。今一人の、「されば寅彦に文章を作(つ)くらして、声(こわ)よきものを撰びて、縁日又はかん工場(こうば)前など様の所に、目立ちたる服装(みなり)をさせて、節(ふし)おもしろく広告をさせなんはいかに」といふ。おのれ曰(いは)く、「猶よきことあり。万世橋(よろづよばし)などの袂(たもと)に立ちて、往来(ゆきき)の人々に無料配付(ただくばり)をなさば、五千はおろか万も五万も世に流布すべし」といへば、一同大笑(おほわらひ)す。
(5)商業文芸雑誌の嚆矢。明治21年10月から26年6月まで全109冊を刊行した。山田美妙を中心に編集。二葉亭四迷、尾崎紅葉、幸田露伴、広津柳浪らの作品を掲載した。
(6)浪華文学会の月刊同人誌『なにはがた』。明治24年4月に創刊された。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
今日は午前中はなす事もなく終わって、昼食後すぐ麹町の半井先生をお訪ねする。私が半井先生をお訪ねする日はいつも雨か風でない日はなかった。今日はいつもとは違っているなどと笑っていたが、家を出る頃から空模様が怪しくなり、九段坂のあたりからは霰(あられ)まじりに雨が激しくなった。先生のお宅へ着いたのは一時過ぎでした。門の戸は押しても開かない。いつもの朝寝だろうと思って、やっと開けて中へ入る。見ると火鉢には火が赤々としてお湯もたぎっているのに先生の姿は見えない。これは失礼なことをしてしまった。お留守のようだとも思ったのですが、このまま帰るのも残念でしばらく立っていると、そこへ先生が帰って見えた。お風呂に行っていたのだとおっしゃって、 お詫びを言われる。この前のあの人もご一緒でした。
話は雑誌「武蔵野」 のことに進みました。
「同人の人たちに色々と支障が出来て、発行の日がこんなに延びてしまったが、皆の熱意だけは大変なものです。 柳塢(りゆう)亭右田寅彦などは原稿にお金を添えてまで出したいなどと意気込んでいる程です。その他、右田豊彦も絵を無料にするといい、板木師は材料費までも無料にすると言って来たのを固く断った次第なのです。小説雑誌の発行は年々益々盛んになって、その数は大変なものだけれど、これほど熱心なものはまだ見た事も聞いたこともないと本屋も言っている程です。この上は各新聞社が広告料だけ寄付にしてくれて、印刷所の職工が手間賃を無料にしてくれて、また数万の読者が定価の他に幾らかの援助金を出してくれたら、本当に『武蔵野』は万々歳になるだろう」
と言って大笑いをなさる。私も、もう一人の畑島さんもにこにこしてお聞きしたのでした。先生はまた、
「『都の花』は二千五百部、『難波がた』も二千五百部の発行だから、わが 『武蔵野』は五千部ほどは出したいものだ」
とおっしゃる。
畑島さんは、
「では寅彦に宣伝の文章を書かせて、声のいい人に頼んで、お祭りの日とか、また物産陳列所の前などで、目立った服装をさせ、節(ふし)廻し面白く読ませて広告させたらどうだろう」とおっしゃる。
「では寅彦に宣伝の文章を書かせて、声のいい人に頼んで、お祭りの日とか、また物産陳列所の前などで、目立った服装をさせ、節(ふし)廻し面白く読ませて広告させたらどうだろう」とおっしゃる。
「もっとよい方法がありますよ。それは、万世橋などのたもとに立って往き来の人々に無料で配ったら、五千はおろか万も五万も世に広まりますよ」
私がこう言ったので、皆で大笑いしたのでした。
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