樋口一葉「につ記二」⑤
きょうは、明治25年2月25日からです。強風の日がつづきます。
廿五日 風やまず、いと寒し。髪ゆひて、さて家を出づ。戸田君(1)先(まづ)参り居らる。伊東君は何ごとかさしつかへありて参り給はず。かず詠(よみ)題三十。四時頃に終る。小説のものがたりして、田中君、自作の小説二冊計(ばかり)みせ給ふ。日没頃車を給はりて帰る。十一時頃床にいる。
廿六日 快晴。
廿七日 小石川稽古也。強風、寒気はなはだし。早朝より行。前田君(2)より来たりし歌に、返歌(かへし)したゝめておくる。三田弥吉君(3)夫人入門せらる。四時頃帰宅す。
廿八日 早朝、図書館へ趣く。此日も強風寒し。荻野君旅宿(やど)を訪(とう)て書物を返しなどせしに、竹州君、原町田へ一昨日(をとつひ)参られたるよし。妻君計(ばかり) なりし。 暫時(しばらく)対話。夫(それ)より図書館へ行。館内にて新潟県人田中みをの女史に邂逅(めぐりあひ)、禅学の事に付(つき)て談話(ものがたる)。女は長岡の戸長(こちやう)の嗣女(あととりむすめ)なるよし。良人(をつと)は洋画を業(わざ)とするとか。女、禅学に志深けれど、地方の習慣(ならはし)女子(をなご)をして就学の便(たより)を得せしめず、偶偶(たまたま)近方(きんばう)の寺院(てら)などに布教の僧ありと雖(いへど)も、俚耳(りじ)に入り安き小乗(4)の浅薄(あさはか)なる事のみにて、事大乗のうん奥(あう)(5)に致らず、望洋(6)の思ひありといふ。「今(この)たび上京の便(たより)に任し、原但山(7)君に教へを乞はゞやと思ふ」などいふ。該学(そのがく)に関する書物など取調べたり。帰路(かへりみち)同行しつつ、女史が池之端の寓居まで趣く。後日を約して立別れぬ。帰宅せしは日没少し前なりし、この日、野宮君(8)来訪されたるよし。
廿九日 ことなし。
三月一日 田中君より手紙来る。過日小説のことに付て新聞社の周旋依頼し置しに、我が著作の小説一、二回見度(みた)し、其上にて相談せん、といへる人あるよし。「至急遣(つか)はされたし」とて也。直(ただ)ちに「棚なし小舟(をぶね)」(9)に筆を下ろす。此夜壱回丈(だけ)書き終る。国子などの、「此月は必らず都合よかるべき也。一日(ついたち)早々うれしき報(しらせ)を得たれば」などいふ。
二日 午前(ひるまへ)髪をゆひて、午後(ひるすぎ)より新小川町に行く。田中君まさに各評の(10)し〆切(しめきり)に成し所なりけり。打とけたる物語に長き日のくるゝも知らず、燭を取て猶談(なほはな)す。晩飯(ばんめし)の饗応(もてなし)受けて、さて車にてかへる。 日没よほど過ぎ成けん。この夜は目立つことなく、只、田辺君受持の難陳(なんちん)二題よみて床にいる。
(1)戸田忠ゆき。萩の舎客員の歌人。
(2)前田朗子(さえこ)。加賀前田家第15代当主前田利嗣後妻。
(3)外国奉行や神奈川奉行の支配役を経て、大蔵省の官吏を務めていたようだ。
(4)小さな乗り物の意。大乗に比べて自己の悟りを第一とする教えで大乗側からの貶称だが、ここでは卑近な教理のことをいっている。
(5)蘊奥。本来の大乗の奥深い教え。
(6)遠く仰ぎみるさま。『荘子』(秋水篇)に「流れに順(したが)ひて東行し、北海に至り、東面して視るに水端を見ず。是(ここ)に於て河伯始めて其の面目を旋(めぐ)らし、望洋として若(海若、海の神)に向ひて歎ず。」などとある。
(7)原坦山(1819 - 1892)。陸奥磐城平(福島県)出身。漢学、儒学、医学を学び、のち出家して禅を修行した。明治5年教導職に任ぜられたものの出版法違反の責を負わされ解任。僧籍を失ったため、同12年に東京大学印度哲学科講師となり、翌年僧籍に復帰して最乗寺に住んで同24年、曹洞宗大学林総監となった。明治25年7月27日に死去している。
(8)野々宮菊子。一葉の妹邦子や桃水の妹と親しく、一葉に桃水を紹介した。一葉に和歌を学んで教授料を納めるなど、生活の苦しい樋口一家を助けた。東京高等女学校に進んで教員免許を取得。日記の年の1月から麴町尋常小学校に勤め始めていた。
(9)「たま襷」の先行的な作品。2回だけで中断した。
(10)「萩の舎」での樋口一葉の姉弟子だった田中みの子主催の歌会の各評。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
二十五日。風やまず、大変寒い。髪を結って家を出る。戸田忠之さんが既に見えていた。伊東夏子さんは何か差し障りがあって欠席。数詠み題三十。四時頃に終わる。その後、小説の話などして、みの子さんは自作の小説を二つほど見せて下さる。日が暮れてから車を戴いて帰る。十一時頃床に入る。
二十六日。快晴。
二十七日。萩の舎の稽古日。風強く、寒さ厳しい。朝早くから出かける。前田さんから戴いた歌の返歌を書いて送る。三田弥吉氏の夫人が入門される。四時頃帰宅する。
二十八日。朝早くから図書館に行く。今日も風強く寒い。途中、荻野氏を館にお訪ねして本をお返ししたが、荻野氏は原町田の渋谷家へ一昨日出かけられて奥様だけでした。しばらくお話して、それから図書館へ行く。館内で新潟県人田中しをの女史という人に出会って、禅のことについて話を聞く。田中女史は長岡の町長のお嬢さんで家の跡を継ぐ人だという。ご主人は洋画家であるとか。女史は禅の研究に深い志をお持ちだが、地方の風習として女には学問をさせず、たまたま近くの寺院に布教する僧侶がいても、田舎者相手の程度の低い小乗の教えばかりで、大乗の奥深い教えを説くことはなく、まことに漠然とした思いであるという。
「今度の上京の機会に、原坦山先生の教えを受けたいと思っているのです」
などと話され、禅に関する書物などを調べておられた。帰りもご一緒して、女史の上野池の端のお宅まで行く。再会を約束して別れる。帰宅したのは日暮れ少し前でした。留守のうちに野々宮菊子さんが見えたとのこと。
二十九日。特別の事もない。
三月一日。田中みの子さんから手紙が来る。先日小説のことについて彼女に新聞社への周旋を頼んでいたのですが、私の小説の一、二回分を見た上で相談したいと言っている人があるとのこと。至急に送ってあげなさいとの手紙でした。直ちに「棚なし小舟」という題で書き始める。今夜一回分だり書き終わる。邦子が「今月はきっとよい月になりそうだ。ついたち早々にうれしい知らせが入って来たのだから」などと言う。
二日。午前に髪を結って午後から新小川町に田中みの子さんを訪ねる。みの子さんの所では歌会の各評が廻って来て最後のところでした。すっかりくつろいだおしゃべりに日の暮れるのも知らず、灯がついてもなお話は尽きないのでした。夕食をご馳走になって、それから車で帰る。日が暮れてかよほど時間が過ぎていたようです。夜は特別な事もなく、ただ田辺龍子さん担当の難陳の二題の歌を詠んで床に入る。
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