樋口一葉「につ記二」②

 きょうは、明治25年2月15日から。風の強い日がつづきます。


十五日 雨はやみたれど風寒し。午前(ひるまへ)に家を出でゝ、師の君がり先(まづ)行く。伊東君老母帰宅されんとする所成し。師君これより佐々木君へ参り給ふよし。「暫時(しばらく)居りくれたし」とて出かけ給ふ。二時近くなるまで帰宅なし。おのれも麹町(かうぢまち)行き(1)に心いそがれて、留守居の婢女(はした)に依頼して暇乞(いとまごひ)す。九段坂上より車にていたる。半井君方(かた)に来客あり気(げ)なれば、軒ばにしばしたゝずみ居しに、うし窓より面てを出(いだ)し給ひて、「お入(いり)あれ。心配の人ならず。我が兄弟同様のものぞ」との給ふ。入てみるに、何といふ人かしらず、年若く色黒き人なり(2)。小説一覧に供す。いたくほめらる。其人も種々(さまざま)にいふ。雑誌の名は 「むさしの」(3)とつきたるよし。「遅くも来月一日頃までには発兌(はつだ)すべき見込(みこみ)也」といふ。「男子(をとこ)の方(はう)は一月(ひとつき)交代のつもりなれど、君のみは連月(れんげつ)に願ひたし」などいはる。うしが新著の草稿(4)みせ給ふ。「小(を)がさ原艶子嬢(はらつやこぢやう)」といふ人物の名あり。「これは心つけて直し給へ」などいふ。少時(しばし)にて帰宅。芝兄君、「病気にて困窮甚だし」といへるに、金少々、通運(つううん)便(5)にて送りたりしが、「今少し送られたし」とはがきにていひこしぬ。「さらば明日おのれが参らん」などいふ。久保木参る。国子とおのれと、かもじかひ(6)に行く。留守にて母君腹痛のこと。帰宅早々手当(てあて)をす。夜を尽してわるかりし。この日、総撰挙(そうせんきょ)(7)投票当日なれば、市中の景況いづ方(かた) 何となく色めきたる姿なりし。 

(1)平河町の桃水宅。
(2)畑島一郎。『武蔵野』の同人で、号は桃蹊(とうけい)。朝日新聞社会部の記者で、大阪に滞在して浪華文学会に関係したこともあった。
(3)広くは関東または武蔵国の平野、一般に入間川、荒川、多摩川に囲まれ、東京と埼玉にまたがる洪積台地をいう地名。大阪の「なにはがた」(難波潟)に対抗して名づけた。
(4)『武蔵野』第1号に載せる桃水の「紫痕」を指している。
(5)いまの書留にあたる。通運は、貨物を輸送すること。
(6)「かもじ」は、加文字とも書き、髪文字の略。女性が日本髪を結うとき頭髪に補い添えるための髪。一葉は地髪が薄いため、銀杏返しの鬢や髱(たぼ)をひきつめて結うようにしていたという。
(7)第2回衆議院議員総選挙。明治25年2月15日に行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙。内務省(品川弥二郎内相)による選挙干渉によって死者まで出したことで知られる。

十六日 大風(おほかぜ)。寒気甚だし。母君は森照次(しやうぢ)君がり金子(きんす)かりにと趣き給ふ(8)。おのれは芝(しば)へ行(ゆく)。万世橋(よろづよばし)より鉄道馬車(9)、それより車にて行く。貧家のさまは思ひし如く成しかど、病気はさまでつよからず、大安心す。持参の金子送る。種々(さまざま)物がたり、ひる飯こゝにてたべぬ。三時頃帰宅の途につく。新橋より又馬車。帰宅せしは、やゝ日没に近かりし。母君、森君の方(かた)首尾よかりし物がたりをし給ふ。一同よろこぶ。この夜、原町田渋谷君より返書来る。
十七日 早朝結髪(かみゆひ)して家を出づ。荻野君を中徒町(なかおかちまち)の旅宿(やど)にとふ。物がたり種々(さまざま)。書物をかりる。夫よりと書館へ行く。三時帰宅。習字をなす。日没後入湯(にふたう)。さかなかひに行きし(10)奇談あり。

(8)森照次は、正しくは森昭治。一葉の父則義の東京府庁時代の上役で、樋口家は1月中に昭治から6月までの半年分の生活を援助してくれる約束をした。そこで母たきは、2月分の借用のため、森家の都合を問い合わせに赴いたと見られる。 
(9)いまの千代田区北東部、神田川に架かる橋。明治6年、城門を壊した石を利用して東京で初めてのアーチ型の石橋(眼鏡橋)がつくられたのにはじまる。当時、橋のたもとに停留場があった。
(10)当時、魚は高級品で、行事の際に周辺の大きな家に行って魚を調理し提供することが多かったとか。樋口家にとっても、相当に高価だったとみられる。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。






《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から


十五日。雨はやんだけれど風は寒い。午前に家を出て歌子先生の所へまず伺う。伊東夏子さんの母親が見えていて丁度帰られるところでした。先生はこれから佐々木医師のところへ行かれるとのこと、しばらく留守番をしてくれといって出かけられた。ところが二時近くになってもお帰りにならない。私も麹町の半井先生へ原稿持参のことが気になって留守居の女中にあとを頼んでお暇をする。
九段坂上から車を拾って行く。半井先生のお宅は来客中の様子なので、軒下にしばらく立っていると、先生が窓から顔を出して、
「おはいりなさい。心配する人ではありません。私の兄弟のような人です」
とおっしゃる。入ってみると、何という人か知らないが、年の若い色の黒い人でした。先生に小説の原稿をお見せする。ひどく褒めて下さる。その人も色々と言って下さる。雑誌の名前は 「武蔵野」としたとのこと。遅くとも来月一日ごろまでには発行の予定であること、また原稿は男子は隔月の予定だが、あなただけは毎月願いたいなどと言われる。その後、先生の新作小説の原稿を見せて下さる。その登場人物の中に小笠原艶子という名前が見えた。萩の舎にこれと同姓同名の人がいるので、「この点はご注意なさって、お直しになっては」 などと申しあげる。しばらくお邪魔して帰る。
芝の兄が病気で大変困っているというので、 前にお金を少し郵便為替で送っておいたが、も少し送ってほしいとはがきで言ってくる。では明日私が直接伺うことにしようなどと話し合う。久保木の義兄が見える。邦子と私はかもじを買いに行く。その留守に母上は腹痛をおこされ、帰る早々手当てをしてあげる。夜どおし苦しまれた。今日は総選挙の投票日でしたので、街の雰囲気はどこへ行っても何となくざわめいている様子でした。

十六日。大風。寒さ厳しい。母上は森昭治氏のお宅へお金を借りに行かれる。私は芝の兄のところへ行く。万世橋から鉄道馬車で新橋まで、それからは車で行く。兄の貧乏暮らしは思った通りでしたが、病気の方はそれほどでもなく大安心する。持参のお金を渡して色々と話し、お昼をここでいただく。三時頃お暇して、新橋からはまた馬車に乗る。帰宅したのは日暮れに近い頃でした。母上は森氏のお宅での話がうまく言ったことを話される。一同大喜び。夜、原町田の渋谷氏から返事が来る。

十七日。朝早く髪を結って家を出る。荻野氏を中徒町(なかおかちまち)の旅館に訪ねる。(渋谷氏からの返事を渡し) 色々の話のあと本を借りる。それから図書館へ行く。三時に帰宅、習字。日が暮れてから入浴。魚を買いに言って面白い話を聞いた。

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