樋口一葉「につ記二」①
きょうから「にっ記二」に入ります。明治25年2月10日からはじまります。
二月十日 朝来(あさより)机辺(きへん)にあり(1)。午後(ひるすぎ)母君、奥田(2)へ見舞に参り給ふ。日没少し前、小石川より郵便来たる。「師君風邪にて、一人にて歩行(おひろひ)も出来難し」とのこと。「早速参りくれ度(たき)」趣(おもむき)故(ゆえ)、直(ただち)に仕度して行く。師君いたく喜び給ふ。「逆上(のぼせ)甚だしく、ともすれば本心をも失なひやせんと思ふ様なるに、種々(いろいろ)後事など托しておかばやとて呼つる也」とて、心細げに泣き給ふ。種々談話(さまざまものがたる)。「君が来給ひしより心落(おちゐ)居てや、少し快よく成たる様(やう)也」との給ふ。薬などすゝめて十時にも成ぬ。「明日、又」とて床にいりし。
十一日 快晴。師君大きによろしき方(かた)也。下婢(はした)のことに付て伊東家一条のものがたりあり。右らにつき、おけい(3)のもとへ使ひに行く。其もように依りて、更に伊藤君へ行く。岩松のもと(4)より車。伊東君(5)にて暫時(しばらく)対話。但し夏子君は他行中なりし。帰路(かへりみち)佐々木君(6)にて薬取(くすりとり)をなす。午後(ひるすぎ)、水野せん子君(7)参らる。三時過る頃、宅より国子迎ひに来る。新参の下婢(はした)のおのれと見違へたる奇談あり。夫(それ)より直に暇乞(いとまごひ)して帰る。四時成し。上野房蔵(8)来たりたるよし。国子それより吉田君へ行く。帰宅せしは日没後なりし。吉田君より梅と水仙のいけ花もらひて来る。此夜国子、「日記の書初めをなしたり」とて見せる。此夜二時床に入る。
(1)「闇夜」上を執筆していた。
(2)奥田栄。この老女へ樋口家は、父の借金の返済をしていた。
(3)今村けい。加藤兼蔵の娘で、歌子の養女になっていたことがある。歌子は、伊東家の紹介を受ける前にけいのほうと交渉していた。
(4)おけいが身を寄せていた家とみられる。
(5)伊東延子(一葉の親友夏子の母)に会って、歌子の依頼について伝えた。
(6)佐々木医院。
(7)水野銓子とみられる。駿河沼津藩第8代藩主、水野忠敬の長女。
(8)上野房蔵上野の伯父さんと親しまれた上野兵蔵の妻つるの連れ子。
十二日 雨天。父君の命日(9)なれば、母君、寺参りし給ふべき筈なりしが見合せにす。小説十五日までに半井うしへ送るべき約なるに、期日も近づきぬ。まだ上(じよう)の巻計(まきばかり)にて中下(ちゆげ)とも残れり(10)。さらば明日の稽古は断りいひて休まばやと、師君のもとへはがきを出す。此夜小説少しよみて母君に聞かし参らす。思ふことおもふまゝにもならで今宵もいたく怠(おこた)りにけり。
十三日 晴天。朝来(あさより)小説にかゝる。終日(ひねもす)従事。此夜終夜(よもすがら)、 暁(あけ)がたに少しねむる。
十四日 大雨。終日小説に従事、 燈明(とうみやう)に及んで全備す。半井うしへはがきを出す。「明(あす)午後参らん」とて也。重荷(おもに)おろしたる様になりて、今宵はいたく安心す。
(9)父の樋口則義は、明治22年7月12日に享年60歳で死去した。
(10)「闇桜」の原稿。桃水がこれに修正を若干加えて写しとり、入稿したと見られている。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
二月十日。朝から机に向かう。午後母上は奥田の老人のお見舞に行かれる。日暮れ少し前に歌子先生から郵便が来る。風邪のために一人では歩行も出来かねるとのこと。すぐに来てほしいとのことなので直ちに用意をして出かける。先生はひどく喜ばれる。非常に興奮しておられて、
「実は、どうかすると正気を失うようになるのではないかと思われるので、塾のことについて色々と後の事を頼んでおきたいと思ったので、あなたをお呼びしたのです」
と心細い声でおっしゃってお泣きになる。色々とお話があって、
「あなたが見えてから、心が落着いて来たのでしょうか、少し気分がよくなったようです」とおっしゃる。薬などすすめて十時にもなったので、「ではまた明日」といって、その夜は塾に泊る。
十一日。快晴。先生は大分よくなられたようだ。女中のことを伊東夏子さんが心配してくれていることなどの話をされる。この事で早速おけいさんの所へ行き、更に伊東さんのお宅へ廻る予定で出かける。岩松の所からは車で行き、伊東宅でしばらく話す。あいにく夏子さんは外出中でした。帰路に佐々木医師へ廻って薬を頂く。午後水野銓子さんが見える。三時過ぎに邦子が迎えに来る。新しく来た女中が私と妹とを見間違えるという可笑しなことがあった。私はそれからすぐにお暇をして家に帰る。四時でした。留守中に上野の藤林房蔵さんが見えたとのこと。邦子はそれから吉田さんの所へ行き、帰宅は日が暮れてからでした。吉田さんから梅と水仙の花をもらってきた。夜、邦子が日記を書き始めたといって見せてくれる。二時に床に入る。
十二日。雨。父上の命日なので母上はお寺詣りをなさる筈でしたが都合でおやめになる。小説の原稿を十五日までに半井先生にお送りする約束なのに、その期日も近づいて来た。それもまだ上巻しか書けなくて、中巻下巻が残っている。そこで明日の萩の舎はお休みしたいと思って歌子先生へはがきを出す。夜、母上に小説を少し読んでお聞かせする。思うことが思うようにもならずに今夜もひどく怠けてしまった。
十三日。晴。朝から小説にかかる。終日書き、夜も徹夜する。明け方に少し眠る。
十四日。大雨。終日小説を書き、夕方灯りがともる頃にやっと完成する。半井先生へ明日午後お伺いするとはがきを出す。重荷をおろしたようで、今夜はすっかり安らかな気持ちになった。
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