樋口一葉「につ記一」⑩
きょうは、「につ記一」の最後の部分。明治25年2月4日の終盤から、同月9日までです。
其中(そのうち)うし、隣家(となり)へ鍋をかりに行く。とし若き女房の、「半井様、お客様か。お楽しみなるべし。御浦山しう」などいふ声、垣根一重のあなたなれば、いとよく聞ゆ。「イヤ別して楽しみにもあらず」などいふはうし也。「先頃仰せられし、あのおかたか」と問はれて、「左(さ)なり」といひたるまゝ、かけ出して帰り来たまへり。「雪ふらずは、いたく御馳走をなす筈(はず)なりしが、この雪にては画餠(がべい)に成りぬ」とて、手づからしるこをにてたまへり。「免(ゆる)し給へ。盆はあれど奥に仕舞(しまひ)込みて出すに遠し。箸(はし)もこれにて失礼ながら」とて、餅やきたるはしを給ふ。ものがたり種々(さまざま)。うしが自まんの写真をみせなどし給ふ。暇(いとま)をこへば、「雪いや降りにふるを、今宵は電報を発して、こゝに一宿し給へ」と切(せち)にの給ふ。「などかわさることいたさるべき。免(ゆる)しを受けずして、人のがりとまるなどいふ事、いたく母にいましめられ侍る」と真顔にいへば、うし大笑(おほわらひ)し給ひて、「さのみな恐れ給ひそ。おのれは小田へ行て、とまりて来ん。君一人こゝに泊り給ふに、何のことかわあるべき。よろしかるべし」などの給へど、頭(かしら)をふりてうけがわねば、「されば」とて、重太(しげた)君(1)をして車やとはせ給ふ。半井うしがもとを出しは四時頃成けん。 白(はく)がいがい(2)たる雪中、りんりんたる寒気ををかして帰る。中々におもしろし。ほり端通り、九段の辺、吹かくる雪におもてもむけがたくて、頭巾(3)の上に肩かけ(4)すつぽりとかぶりて、折ふし目計(ばかり)さし出すもをかし。種々(さまざま)の感情むねにせまりて、「雪の日」(5)といふ小説一篇あまばやの腹稿なる。家に帰りしは五時。母君、妹女(いもと)とのものがたりは多ければかゝず。
(1)茂太。桃水の二番目の弟にあたる。
(2)白皚皚。霜や雪などの、きわめて白いさま。
(3)御高祖頭巾。日蓮上人(御高祖)の像の頭巾に似ているところから、目の部分だけ残して頭や他の部分を全部包む防寒ずきん。
(4)正方形を三角に折ったショール。明治10年ごろ洋服とともに使用されはじめ、明治中期ごろから和服にも用いられるようになった。
(5)一葉は、明治26年1月に『文学界』に「雪の日」を執筆。27年には、同じ題名で別の作品を試みている。
五日
六日 小石川稽古。
七日 ことなし。但し山下君、石井(6)、西村君、荻野君(7)来給へり。
八日 ことなし。
九日 奥田老人病気の報(しらせ)あり。母君直(ただち)に参り給ふ。国子と共に、同事に付てさまざま相談す。荻野君来給ふ。『朝日新聞』を持参したまふ。「原町田渋谷(8)へ書状さし出しくれ度(たし)」 とてはがきを依頼さる。日没後、母君帰宅。老人は左(さ)までにも、あらざるよし。此夜姉君、秀太郎来る。十時頃まで談話(ものがたり)、帰宅。母君、国子も、「今宵はねむからず」とて、二時頃まで起ゐ給へり。
(6)石井利兵衛。則義の時代からの知人で伊勢利とも言われた。店の棚つりなどもしてくれた。
(7)荻野重省。一葉の父則義の友人で、詩友。号は竹洲。司法省の官吏だった。
(8)一葉の婚約者のような立場にあった渋谷三郎の実家。渋谷家と荻野重省の間には、深い親交があったようだ。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
しばらくして先生は隣へ鍋を借りに行かれる。やがて、年若い女の声で、
「半井様、 お客様ですね。さぞお楽しみでしょう。羨ましいことですわ」
と一言うのが、垣根一つ隔てた向こうなのでよく聞こえる。
「いや別に楽しみなどではありませんよ」
と言うのは先生の声です。
「先だって話しておられたあのお方ですか」
と問われて、
「そうですよ」
とだけ答えて、あとは馳けだしてこちらへ戻ってこられるのでした。
「雪が降らなかったらもっとご馳走するはずでしたが、この雪では絵に画いた餅になってしまいましたね」
と言って、ご自分で汁粉を炊いて出される。
「さあ、 めしあがりなさい。お盆はあるのですが、奥の方にしまいこんでしまって、わざわざ出すのも面倒なのです。それに、箸もこんなもので失礼ですが、と言って、汁粉の餅を焼 いた箸を添えて下さるのでした。
お話が次から次へとはずんで行きました。先生ご自慢の写真も見せて下さる。やがてお暇をしようとすると、
「雪がますます盛んに降り出しました。今夜は、お宅へは電報を打って、是非ここへお泊りなさい」と、しきりにおっしゃる。
「とてもそんな事は出来ませんわ。許しを受けないで人の家に泊るなどということは、母から厳しくとめられておりますので」
と、緊張して真面目な顔つきで答えると、先生は大笑いなさって、
「私は小田の家へ行って泊るのですよ。あなた一人がここに泊るのですから、何の不都合もないのですよ」
とおっしゃるが、私がどうしても承知しないので、それではと言って弟の茂太さんに車を呼びに行かせなさったのでした。
桃水先生のお宅を出たのは四時頃だったでしょうか。
白皚々(はくがいがい)として一面真っ白な雪の中を、凛々(りんりん)とした厳しい寒さを冒して帰って行く。この情趣はなかなかすばらしいものでした。堀端通りから九段あたりは、吹きつける雪に顔をあげることもできず、頭巾(ずきん)をかぶった上にまた肩掛けをすっぽりとかぶり、時々眼だけを出してあたりを見るのも面白い。雪の中を車で帰る途中は、こうして色々な感情が次々に胸にせまってきて、「雪の日」 という小説を書こうと思いつき、その大体の構想も浮かんできたのでした。
家に帰り着いたのは五時。母上や妹との話は多すぎるので、ここには書かないでおく。
六日。萩の舎の稽古日。
七日。変わったことなし。ただし山下氏、石井氏、西村氏、 荻野氏が見える。
八日。変わったことなし。
九日。奥田の老人が病気との報せがある。母上はすぐに行かれる。邦子と一緒にこのことについて色々相談する。荻野氏が見える。朝日新聞を持参される。原町田の渋谷三郎氏宛に手紙を書いてくれといってはがきを頼まれる。日が暮れてから母上帰宅。奥田の老人の病気はそれほどでもなかったとのこと。夜、姉と甥の秀太郎が来る。十時頃までおしゃべりをして帰る。母上も邦子も今夜は眠くないといって二時頃まで起きておられた。
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