樋口一葉「につ記一」⑨

明治25年2月4日、雪の日の日記はずいぶんと長くなってきました。きょうはその中ほどです。

「よべ誘はれて歌舞伎座に遊び、一時頃や帰宅しけん。夫(それ)より今日の分の小説ものして(1)床に入(いり)しかば、思はずも寐過(ねすご)しぬ。まだ十二時頃と思ひつるに、はや二時にも近かりけり。など起しては給はらざりし。遠慮にも過ぎ給へるよ」とて大笑(おほわらひ)しながら、雨戸などくり明け給ふ。「あなや、雪さへ降り出(いで) にたるに、さぞかし困(こう)じ給ひけん」とて勝手のかたへ行(ゆく)は、手水(てうづ)などせんとなるべし。「一人住みは心安かるべけれど、起るやがてく車井(くるまゐ)の綱たぐるなど中々に侘しかるべきわざかな」と思ひ居たるに、台じうの(2)といへるものに消炭(けしずみ)少し入れて、其上に木片(こつぱ)の細かにきりたるをのせて、うし持て来たまへり。火桶(ひをけ)に火起し、湯わかしに水入て来るなど、みるめも侘しくて、「おのれにも何か手伝はし給へ。お勝手しれがたければ教へ給ひてよ。先づこの御寐所(おねどこ)かた付けばや」とてたゝまんとしたるに、うしいそがわしく押とめ給ひて、「いないな、願ふ事はなにもなし。それは其儘(そのまま)に置給ひてよ」と迷惑げなるに、をしてはいかゞとてやみぬ。
枕もとにかぶき座番付(3)、さては紙入れなど取ちらしあるに、紋付の羽織、糸織の小袖(4)など、床の間の釘(くぎ)につるしあるなど、ろうがわしさ(5)も又極まれり。「昨日(きのふ)書状を出したる其用は、今度青年の人々といわば、いたく大人顔する様なれど、まだ一向小説にならはざる若人達たちの研究がてら、一ツの雑誌を発兌(はつだ)せん(6)と也。世にいわゆる大家(たいか)なる人一人も交じえず、腕限りカかぎり仆(たふ)れて止まんの決心中々にいさぎよく、原稿料はあらずともよし、期する所は一身の名誉てふ計画ありて、一昨夜相談会ありたるまゝ、こは必らず成り立つべき事と思ふに、君をも是非とたのみて置きぬ。十五日までに短文一篇草し給はずや。も尤(もつと)も一、二回は原稿無料(ただ)の御決心にてあらまほしく、少し世に出で初(そ)めなば、他人はおきて先(ま)づ君などにこそ配当いだすべければ」などくれぐれの給ふ。
「さりながら、おのれら如き不文のもの、初号などに顔出しせんは、雑誌の為め不利益にや侍らむ」とて辞せば、「何としてさることやはある。今更に其様なこと仰せられては、中に立てそれがし甚だ迷惑する也。先方にはすでに当になしたることなれば」など詞(ことば)を尽して仰せ給ふ。「さればよろしく取計らひ給ひてよ。実はこの頃草(さう)しかけし文(ぶん)、御めにかけばやとて今日もて参りぬ。完成のものならねど」とて、持てこし小説一覧に供す。「よろしかるべし。これ出し給へ。おのれは過日ものがたりたるもの(7)、一通の文(ふみ)としてあらはさばやと思ふ也」などものがたらる。

 

(1)桃水は当時、明治期の日本と朝鮮を舞台に両国の風土や人々を描いた「胡砂吹く風」を東京朝日新聞に連載していた。
(2)台十能。置くのに便利なように下に台をとりつけた十能(金属製の容器に木の柄をつけた炭火を入れて持ち運ぶ道具)。
(3)興行する狂言題目、上演する場面、役付、狂言作者、囃子方、振付人、道具方の名前などを、勘亭流(太くうねりのある様式化された書き文字)で書き、印刷したもの。
(4)絹のより糸で織った、無地やかすりなど滑らかな布で仕立てた小袖の長着。
(5)乱雑でむさくるしい感じがすること。
(6)『武蔵野』を発行する計画を打ち明けている。桃水は、東京朝日の同僚など新聞記者仲間による同人誌を念頭においていたようだ。
(7)小学館全集には「「紫痕」の原案を西鶴の『万の文反故』のように書簡体で書いてみようとの考案」とある。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から

「昨夜は誘われて歌舞伎座に見に行き、帰ったのは一時頃でしょうか。さて、それから今日の分の小説を書いて床に入ったので、思わず寝すごしてしまったのです。まだ十二時頃かと思ったのに、もう二時近くもなっているのですね。どうして起こして下さらなかったのですか。それではあまり遠慮が過ぎますよ」
と、大笑いしながら雨戸を開けなさる。
「あゝ、雪まで降っていますね。さぞお困りだったでしょう」
と言って勝手口の方へ行かれたのは、洗面などなさるためでしょう。独り暮らしは気楽なことでしょうが、起きるとすぐ車井戸の綱をひいて水を汲むなど、かえってご苦労の多い事よと思っていると、先生は台十能(だいじゅうのう)というものに消炭を少し入れてその上に木屑の細かに切ったのをのせて持って来られました。火鉢に火を起こしたり、湯沸かしに水を入れてくるなど、見る目もみじめで、
「私にも何か手伝わせて下さい。様子がわかりませんので、教えて下さい。まずこのお蒲団を片づけましょう」
と言って畳もうとすると、先生は慌てて押し止めなさって、
「いやいや、お願いすることは何もありません。それはそのままにしておいて下さい」
といかにも迷惑そうなご様子なので、それを無理にするのもどうかと思ってやめました。

枕もとには歌舞伎座の番付け、さらに財布など散らかっていて、また紋付きの羽織、糸織りの小袖着物などが床の間の釘につるしてあるなど、乱雑この上もないほどの状態です。
「昨日お手紙をさしあげた用件というのは、今度若い人達――こう言うと如何にも大家ぶったような言い方ですが――まだ一向に小説を書くことに馴れていない若い人たちの研究を兼ねて、一つの雑誌を発行しようというのです。世間のいわゆる大家と呼ばれている人は一人も交じえず、我々でとにかく腕の限りカの限り倒れるまでやりぬこうという、なかなかいさぎよい決心です。原稿料などはなくてもよい、願う所はよい作品を書き名誉をかちとりたいという計画で、実は一昨夜その相談会があって決まったのです。その時の話の様子で、これは必ず成立するに違いないと思ったので、あなたも是非仲間に入れてもらうよう頼んでおいたのです。で、この十五日までに短編を一つ書いてくれませんか。もっとも、最初の一、二回は原稿料なしのお覚悟で願いたい。しかし、少し世間に知られて広がるようにでもなれば、その時は、他の人はさし置いても先ずあなたにはお支払いしたいと考えています」などと詳しくお話になる。

「しかし、私のような能力のない未熟な者が創刊号などに顔を出すというのは、その雑誌にとって不利益になるのではないでしょうか」
こう言ってご辞退すると、
「どうして。そんなことはありませんよ。今になってそんな事をおっしゃられては、中に立って私がはなはだ迷惑するばかりです。先方ではもう既にあなたをあてにしているのですから」
などと、言葉をつくして重ねておっしゃる。
「それでは、どうぞよろしくお取りはからいの程お願い致します。実はこの頃書きかけた文章をお目にかけたいと思って、今日は持って参ったのです。まだ未完成のものですが」
と言って持参の小説原稿をお目にかける。先生はご覧になって、
「よろしいでしょう。これをお出しなさい。私は先日お話したものを一つの作品としてまとめたいと思っているのです」
などと、興に乗ってお話になるのでした。

コメント

人気の投稿