樋口一葉「につ記一」④
きょうは、明治25年1月8日の後半。桃水が旅行で留守だと言われた一葉は、「隠れ家」にいるのではと訪ねてみました。
まづ庭ロの方よりみれば、ゑんがはの障子新たにはりかえて、物何となくあらたまりたる様なるは、「もし、よの人の住家(すまひ)にかはりたるか」などもうたがわる。格子戸(かうしど)のもとにたちてあまたゝびおとなへど、誰れいらへする人もあらず。「さては留守にや」とおもへど、火鉢にたぎる湯のおとなど、人なき折のさまにもあらず。うちにかとみれば、格子戸の尻にせんさして出入かたく禁じたり。こゝ迄(まで)来て入れられざるも何となく物たらぬ心地のするに、いかで対面給はらばやとさまざまにいひ入(いれ)たれどかひなし。水口の戸(1)の明(あけ)はなしあるにいさゝか力を得て、そこよりいりぬ。さしのぞけば、さまざまの家財つみ重ねたる納戸(2)めきたる所みゆ。奥のかたにうしはおはすにかと、おそるおそるとのぞきたれど、人ありげにもみえず。留守なる所に上り居らんも後(のち)の人ぎゝいかゞなるべきかと、いそぎ立かへらむとす。「さるにても、 参りしかひには、奉らんとてもてきしものだにおかばや」と思ひ寄(より)て、台所の板の間なる所に、土産(みやげ)の小箱さし置て出ぬ。車にのりて帰る道すがらも、「思へばあやしき事をもなしたるかな。我身むかしはかゝる先ばしりたる心にもあらざりしを、年たけると共におもての皮厚く成て、はしたなくもなりつることよ。かゝる筋のこと、世の人もれ聞ましかば何とかいふらむ。あやしう、なき名などたてられなんもしるべからず。いかゞはせん」など思ひ出れば、心は身をせめていとくるし。家に帰りしは二時計(ばかり)頃なりし。
(1)台所の水をくみ入れる出入り口。井戸に通じている。
(2)衣服や調度品を収納する部屋。中世以降、屋内の物置部屋をいい、寝室、産室にも用いられた。
宮塚の伯母(3)君参り居られたり。「留守に姉君ならびに森照始(4)君参られたり」といふ。宮塚とじは暫時(しばらく)対話、西村の伯母君参る。おのれの早帰りにおどろき給ふ。夫(それ)より日没迄(まで)、西村伯母君談話(ものがたる)。其中(そのうら)に国子帰宅。母君、をば君を送りて表町(おもてちやう)(5)へ参り給ふ。この夜、日頃のつかれと遠路のつかれにや、疲労ことに甚だし。さらに何事をなすべき心地もせねど、半井うしには、是非一書参らずはすみがたかるべし(6)、とてしたゝむ。幾(いく)そ度(たび)書直しけん、と角に心にもいらず、からうじて書終へたるは、よみ返してみるに、何となく末におそれの種やまかんとおそろしくさへ成て、状袋にいれたるまゝ、便(びん)にもたくせず余事にうつる。母君九時頃帰宅。十二時まで詠歌(えいか)す。
(3)宮塚くに。父則義の東京府庁時代の僚友だった宮塚正義の妻。
(4)森昭治。父則義の東京府庁時代の上役だった。全集脚注には「1月中に夏子たちは、この昭治から6カ月分の生活援助を受ける約束を得た。昭治は当時、青森県書記官を退き、本郷区駒込千駄木林町14に在住した」とある。
(5)樋口家と親戚同然のつき合いをしていた西村釧之助の家。小石川表町にあった。
(6)全集脚注には「留守中を訪問した非礼を詫びる目的のほかに、生活面についてしばらく長期援助を請うつもりであったのでもあろう。結果としては、森昭治がその相談相手の肩代りをした。その上、居留守を使った桃水の態度も不安だった」とある。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
まず庭の方から見ると縁側の障子は新しく張り替えられて万事が何となく変わっているようなのはもしかしたら他の人の家に替わったのかとも疑われました。格子戸の傍に立って何度お呼びしても、誰一人答える人もない。ではお留守かとも思われるが、火鉢でお湯の沸く音など、人がいない様子でもない。家の中にいらっしゃるのかとも思われ、入ってみようと思うのだが、格子戸の後の方に栓がしてあって出入りができないようにしてある。ここまで来ながら入れてもらえないのは何となく物足りない気持ちがするし、何とかして逢っていただけないものかと、色々に声をかけてみたが何の甲斐もない。勝手口の戸が開け放してあったので、勇気を出してそこから中へ入った。のぞいて見ると色々な家財道具を積み重ねてある納戸(なんど)らしい所が見える。奥の方に先生はいらっしゃるのかと、恐る恐るのぞいて見たが、人のいるようにも思われない。お留守の所にあがりこんでいるのも後で人々の噂にでもなったらと思って、急いで帰ろうとするが、それにしても私がお伺いしたという印に、差上げようと思って持ってきた品物だけでも置いて行こうと思って、台所の板の間にお土産の小箱を置いて外に出た。
車に乗って帰る道すがら考えてみるに、何と不謹慎なことをしてしまったことよ、私は昔はこれほど出しゃばった軽はずみな心ではなかったのに、年をとって面の皮が厚くなったことよ、またはしたなくもなったことよ。もし、こんな事が世間の人に知られたら、人は何と言うだろう。変に先生との噂などたてられたりするかもしれない。そうなったらどうしよう。今日のことをさまざまに思い返すと、私の心は私の身を責めて大変苦しい限りでした。家へ着いたのは二時半頃でした。宮塚の伯母が見えていた。私の留守の間に姉と森昭治氏が見えたという。宮塚の伯母としばらく話す。西村の伯母が見える。私の帰りが早かったのに驚かれる。それから日暮れまで西村の伯母と話す。そのうち邦子も帰宅。母は伯母を送って表町まで行かれる。今夜は日頃の疲れと外出のためか特に疲れて、全く何もする気にならないが、桃水先生には何としても一筆書かねば気持ちがおさまらないのでお便りを書く。何度書き直したかしら。とにかく思い通りに書けすに、やっと書き終えて読み返してみると、この手紙が将来問題となる原因になりはしないかと恐ろしくさえなって、封筒に入れたままで、 投函もしないで他の仕事に移った。母上は九時頃帰宅。十二時まで和歌を詠む。
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