樋口一葉「につ記一」③
きょうは、明治25年1月8日。半井桃水宅を訪ねますが、門は閉ざされ「かし家」という紙が貼られていました。
八日 早起、空打あふげば、いとよく晴て塵計(ちりばかり)のくも ゝなし。うらうらとかすみたる様なるが、誠に春とのみ覚ゆ。出がけの支度かれ是(これ)するまに、綾部喜亮、久保木同道して参る。詫済(わびずみ)になる。帰宅直(ただち)に国子は神田辺へ、おのれは車ものして先(まづ)西村君へとて行(ゆく)。茨城より伯母君(1)参られたりとて面会す。「明日は帰国せんとおもふに、是(これ)よりきく坂迄参らんとの所也。そなたより給はずはあ逢ひがたかりしを」などいひて、嬉しげに物がたりす。出(いで)て師君へ行。「病中且(かつ)来客なれば」と下女(はした)のいふに、「をして対面もいかゞ哉。さらば御老人(2)は」といふに、「只(ただ)今ねぶりに付きたまひし所也」といふにわびて、「更ば又こそ」 とてかへる。みの子君をし新小川町にとふ。「あがれよ」などの給ひつれど、「先をもいそげば」とて暇(いとま)ごひして出づ。車いそがせて平川町(3)半井うしの本宅に来てみれば、門戸(もんこ)かたくとざして、「かし家」のはり紙なゝめにはられたり。先(まづ)むねとゞろかれて立よりてみれば、「半井氏御尋(うぢおたづね)の方は六丁目二十二番地小田何某(なにがし)方まで参られたし」と也。さらばとて、又同家へ行。「半井ぬしは何方(いづく)へにか」と訪(と)へば、下女(はした)めきたるをな子打笑(うちゑ)みながらに奥に入たり。引違(ひきたが)へて出来(いでき)つるは主婦(あるじ)にやあらん、三十計(みそぢばかり)の人、我がとふに答ていふ様(やふ)、「うしはさる頃より旅行して、只今(ただいま)は留守に侍り。御用ならばこゝにいひ置給へ」といふ。「御旅行はいづ方(く)へか」と又とへば、只、「地方へ」と計いふ。今は尋ぬるも無益(やくな)しとおもへば、只、「おのれは樋口と呼ばるゝものに侍り。別しての用なるならねど、御年頭の御礼にとて参りつるなれば、御帰京のふし、其由(そのよし)申しつぎ給てよ。又御手数(おてかず)なるべけれど御帰京の報(しらせ)をもねぎ奉るになん」といひて出ぬ。「なぞの御旅行か、まさしく御隠(おかく)れ家(が)になるべし。ぶしつけは覚悟也。頼み参らすこといと多かるを、いかで対面せずには」とて、例(いつも)のうら家(や)(4)をとひ寄たり。
(1)樋口家と懇意だった西村釧之助の母、西村きく。
(2)網谷幾子。師、中島歌子の母。
(3)平河町。明治時代以降、御屋敷町(武家屋敷跡)として知られた。
(4)小学館全集の脚注には「麹町区平河町2丁目15。桃水は家政を改善する一歩として、2番地の家を引払い、15番地の家を本宅に変えて3月までをひとり住みで過した」とある。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
八日。早起き。空を仰ぐと本当によく晴れて塵ほどの雲もない。うららかに霞んだようなのがまことに春の感じがする。外出の用意をしている時、綾部喜亮氏と久保木氏が一緒に見える。昨日の話の事については詫びることで一件落着したという。両人が帰ったあと邦子は神田へ、私は車を頼んでまず西村氏のお宅へ行く。茨城から伯母様も見えていてお会いする。「明日は郷里へ帰ろうと思っているので、今から菊坂町のお宅へ伺おうとしていたところでした。あなたがおいで下さらなかったら、お目にかかれなかったでしょう」
などと嬉しそうにお話なさる。おいとまをして次に歌子先生のお宅へ行く。先生は病気中で、また来客中だと女中がいうので、無理にお目にかかるのはどうかと思い、
「お母様の方は?」
とお尋ねすると、
「いまおやすみになったところです」
という。情けなくなって、
「では、改めて」といって帰る。
田中みの子さんを新小川町のお宅にお訪ねすると、
「おあがりなさい」とおっしゃったが、先を急ぐ事があるのでといってお暇をする。車を急がせて平川町の桃水先生の本宅に来てみると、門は閉められ、「貸家」と書いた紙が斜めにはってある。まず胸さわぎがして近寄って見ると、「御用のお方は六丁目二十二番地小田久太郎方まで参られたし」とある。それではとその家に行き、先生の行方をお尋ねすると、女中らしい女が笑顔で答えて奥に入り、替って出て来たのは奥様でしょうか、三十ぐらいの人で、
「先生は数日前から旅行に出られ、只今は留守でございます。御用がおありでしたら私までお申しつけ下さい」
という。旅行先を尋ねると、ただ 「地方へ」とだけ答える。 いろいろお尋ねしても無駄だと思ったので、
「私は樋口という者で、特別の用事というのではありませんが御年始の御挨拶に参りましたので、お帰りの折にはこのことをお伝え下さい。
またお手数をおかけ致しますが、お帰りのお知らせを是非お願いいたします」
といってそこを出ました。一体どういうご旅行でしょうか。どうも変だ。まさしくはあの隠れ家(が)にちがいない。不躾と言われるのは覚悟の上、お願い申しあげることが沢山あるので、どうしてもお目にかかりたいと思って、例の裏通りのお宅をお訪ねする。
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