樋口一葉「蓬生日記一」㉒
きょうは、明治24年11月9日と10日。 「蓬生日記一」の最後です。
九日 うす薄ぐもりせり。母君早朝帰宅せらる。今日は小石川稽古なるをもて、髪上げなどす。突然に田辺有栄(ありひで)氏(1)にとはる。狼狽の事。意味有気(ありげ)なる物語之事。同氏帰宅、やがておのれも母君も家を出ぬ。参着遅かりしかば、師君不機嫌の事。来会者廿九名計有し。小出君とみの子君との事。大造(たいざう)君(2)に初めて逢ふ。片山てる子君実母(3)に逢ふ。師君、「泊れ」との給ひつれど、「家にいはざりしかば」とて暇(いとま)を乞ふに、「されば」とて車を賜ふ。帰宅す。母君は、おのれを迎ひながら西村君が新宅見ん、とて参り給ひしといふ。行違(ゆきちが)ひつるなめりとおもふに、尋ね給(たまふ)なんいとわびしくて、やがて又迎ひに行(ゆく)。師君は車を賜ひてまで、「あやふし」との給ひし夜道を、燈火(ともしび)もなくて一人行なん、こゝにもかしこにも、いといふ方(かた)なき罪成けり。表町(おもてちやう)といふ所に母君を尋ねあてゝ、ともどもに帰る。八日計の月、雲に出没して、夜霧の道もみえぬまで立渡りたるなど、只うつしゑ(4)の心地す。二人家に帰りつきしは九時成し。十二時床に入る。
(1)田辺有栄(1845 - 1911)。甲斐山梨郡の名主。明治5年地租改正のための大小切税法廃止に反対する運動の嘆願文を起草。12年に県会議員となり国会開設請願運動を展開し、23年に衆議院議員となった。野尻理作と親交があった。
(2)井岡大造。当時の下谷区に住んでいた萩の舎の客員歌人。
(3)片山てる(鑑)子は萩の舎門人で、建築家片山東熊の妻。その実母は、一葉が小説を志すきっかけを与えた田辺花圃の父田辺太一の兄孫次郎の妻。
(4)映し絵。ガラス板などに人や景色を描き、それを幻灯機で壁や白布に映す。
十日 薄ぐもれり。此頃物入(ものいり)つゞきたるに、例の困窮一しほ烈(はげ)しく、いたしかたなしといふ。十五日には小出君催しの薊園(あざみぞの)の追善会にて、桜雲台(あううんだい)(5)にまねかれたる其料の着るもの縫ふべきながら、「それ所かは」とて小説の著述に従事す。十四日迄に編(あみ)はてんとて成り。午前(ひるまへ)稲葉君、正朔(しやうさく)君と共に参らる。縫物(ぬひもの)依頼さる。せん方(かた)なくてうべなふ。午後大根をかふ。十四、五本にて、三銭五厘なりといふ。此廉(このやすき)(6)にも驚きたり。四時頃より雨降り出づ。母君血の道(7)にて打臥(うちふし)給ふ。此夜小林より、「明日初七日逮夜(たいや)(8)なれば」とて招待状参る。
(5)江戸時代からの高級料亭、浅草八百善が明治9年、精養軒の一月遅れで上野公園内に梅川楼として出店、明治14年に閉店し、その後、桜雲台となった。
(6)10月2日付東京朝日によると、上物だと当時10本で60銭もしたという。
(7)月経時や月経閉止期の女性に現れる、頭痛、めまい、寒け、発汗などの症状。
(8)亡くなってから7日目の前夜のことで、会食しながら通夜を行なう。逮夜とは、次の日に及ぶ夜という意。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
九日。薄曇。母上は朝早く帰宅。今日は萩の舎の稽古なので髪を結ったりする。突然、田辺有栄氏の来訪をうける。大あわてにあわてる。何か意味ありげな話をして帰って行かれた。すぐ私も母上も外出する。塾では遅刻したので先生のご機嫌がよくなかった。出席者は二十九名ばかり。小出粲先生と田中みの子さんとの噂を聞く。井岡大造先生に初めてお逢いする。 片山てる子さんの実母に逢う。先生は泊って行くようにとおっしゃったが、家に言っていないのでおいとまをすると、それではといって車を出して下さる。帰宅。母上は私を迎えがてら西村釧之助氏の新しい店の様子を見ようと出かけられたという。行き違いになったと思うと、私を探していらっしゃる母上のことが気がかりで、すぐまた迎えに行く。 先生が途中があぶないからといって車を出して下さったその夜道を、灯火もつけずに一人で歩いて行くなど、私も母も、 言いようのない失敗をしたものでした。 表町通りで母上を尋ねあてて一緒に帰る。八日の月が雲間に見え隠れして、道も見えないほど夜霧が立ちこめているなど、 ただ影絵のような心地でした。 二人が家に帰ったのは九時。十二時に床に入る。
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