樋口一葉「蓬生日記一」㉑
きょうは、明治24年11月6日から8日。「震災義捐金」などについて語られます。
六日 午前、奥田老人参る。「震災義捐金(ぎえんきん)を出したり」といふ。我も、「いかでいさゝか成りとも出さばや」など思ひながら、母君の免(ゆる)し給はぬにかひなし。ひる飯(めし)をすゝむ。一時過(すぎ)帰宅さる。机辺(きへん)には有ながら、思ふ事何もならず、我身恥かしき仕業(しわざ)也。日没後、小林好愛(よしなる)君(1)老母死去の報道(しらせ)、青山君(2)、帥岡君(3)より参る。母君の下駄かひに行。
七日 晴天。早朝母君、小林君に悔(くや)みに参り給ふ。おのれは小石川稽古なり。八時三十分頃家をば出づ。かしこへ趣きしは九時前成けん。今日は慈善音楽会の催しあればにや、来会者いと僅少(わづか)なりし。午後二時暇(いとま)を乞ひて帰宅す。家の都合あれば也。母君既(すで)に帰宅。午後四時頃強震あり。早卒(さうそつ)(4)母君を庭に出さしめなどするまに止みぬ。あやしき風説(うはさ)にこりたればなめり。日没後、母君再(ふたた)び小林君に趣く。今宵一夜通夜(つや)せんとて也。姉君参る。物語りなどして、「泊らん」といひつれど、「かしこにも(5)無人(むじん)なれば」とて帰す。九時頃成し。
(1)父の則義が東京府に勤めていたときの上司。
(2)青山胤通(1859 - 1917)医学者。岐阜の生まれ。東京帝大医科大学学長、伝染病研究所長などを勤めた。
(3)師岡宗春。当時の神田区の開業医。
(4)あわただしく。
(5)かのところ(姉のところ)も。
八日 早朝母君帰宅せらる。直ちに寐(ねむり)につく。おのれは図書館に書物見に行。まだ開館に至らざりしかば、桜木町より根岸布田(ふだ)の稲荷(6)迄そゞろありきす。名高き御行(おぎやう)の松(7)など見物す。ほゝづき屋の奇談あり。やがて開館を待て入る。『太平記』(8)『今昔(こんじやく)物語』及び『東鑑(あづまかがみ)』を借る。但(ただ)し『東鑑』はよまで『太平記』并(ならび)に「今昔物語』をのみ借かへてみる。館(くわん)を出しは日のやゝ西にかたぶきし頃成き。向ケ岡弥生町の坂(9)にて、若き書生のまだ十七、八なると、十四計(ばかり)なると、菊の鉢植(はちうゑ)をわら繩にて結(ゆ)ひて(10)下(さげ)て来たりしに、其繩切れて行(ゆき)なやみたれば、おのれがしめたる絹紐(きぬひも)(11)取てあたえんとしたる事。其折来(き)かゝりたる大学の生徒のあやしげに見たる事。其書生が振舞(ふるまひ)の事。西片町(にしかたまち)(12)にて別れし事。家に帰りつきしは日没少し前成し。夫(それ)より母君、再び小林君へ参らる。十一時床に入ぬ。
(6)現在の台東区根岸にある石稲荷神社。
(7)現在の台東区根岸にある西蔵院の不動堂にある松の名前。由来は、輪王寺宮(上野寛永寺貫主の東叡大王)がその下で修行したからなど諸説がある。2018年に4代目が植樹された。
(8)伊東夏子によれば、一葉は『太平記』を2回にわたって通読したという。
(9)帝国大学と第一高等中学の間を通る坂。
(10)団子坂あたりには菊栽培の植木屋が多く、明治期には菊人形の名所として知られていた。
(11)帯揚げのちりめん。
第一高等中学前から田町のほうへ出る道の北側の界隈。大学の教員や文化人が多く住んだため、学者町として知られるようにもなった。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
六日。午前、奥田の老人が来る。震災義捐金を出したという。私も少しでもと思いながら母上のお許しがないので仕方がない。老人にお昼を出す。一時過ぎに帰られる。机に向かっていながら思うことは何も出来ず、我ながら恥ずかしい次第でした。日が暮れてから小林好愛氏の老母死去の知らせが、青山氏と師岡氏との両方から来る。母上の下駄を買いに行く。
七日。晴。朝早く母上は小林氏のお宅へお悔みに行かれる。私は萩の舎の稽古へ。八時三十分頃家を出て、塾へ着いたのは九時前のようでした。今日は慈善音楽会の催しがあるためか、出席者は大変少なかった。午後二時おいとまして帰る。家の都合があったからです。母上は既に帰っておられた。午後四時頃強震。急いで母上を庭に出させたりするうちに止んでしまった。地震の方が変な噂にこりたからだろう。 日が暮れてから母上は再び小林宅に行かれる。今夜一晩、 お通夜のためです。姉が来る。話しているうちに、姉が泊ろうかなどと言い出したが、姉の方も人が少なく心配だからと言って帰す。九時頃でした。
八日。朝早く母上は帰宅。すぐに床につかれる。私は図書館に本を見に行く。まだ開館前だったので桜木町から根岸布田の稲荷まで散歩する。有名な御行(おぎょう)の松など見物する。 ほおずき屋の奇談がある。開館を待って入る。太平記、今昔物語および吾妻鏡を借りる。しかし吾妻鏡は読まないで、太平記と今昔物語を次々に借りかえて読む。館を出たのは陽がやゝ西に傾いた頃でした。向ケ岡(むこうがおか)弥生町の坂で、まだ十七、八歳と十四歳ぐらいの若い学生が菊の鉢植えを藁縄で結んで下げて来ていたが、その縄が切れて困っていたので、私が腰の絹紐を解いて与えようとした事。その時通りかかった大学生が疑わしげな目で見た事。その時の若い学生の振舞いの事。西片町で別れた事。こんな事があった。家に着いたのは日暮れ少し前でした。それから母上は再び小林宅に行かれる。十一時、床に入る。
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