樋口一葉「蓬生日記一」⑱

きょうは明治24年10月30日のつづき。鶴田たみこの出産にかかわるやっかいな出来事について記されています。

十二時頃家をば出づ。半井君をとふ。二番地の寓所(ぐうしょ) (1)をとび参らせしに、「種々(いろいろ)込入(こみいり)たる話しもあれば、此頃もとめし隠れ家に」との給ふ。伴はれて一丁計(ばかり)手前なる、とあるうら屋に参る。 座敷の間数(まかず)四ッ計あり。書斎なるべし、六畳の間に文机(ふづくゑ)置て、そが上に原稿紙、筆硯(ふですずり)など次第なく置かれたり。障子四枚立てる外(そと)は縁(えん)なるべし。 入りての右は小窓ながら、風のいと強ければにや、おろし込(こめ)たり。左に三尺の戸棚有て、其並びに同じ三尺の床めきたる所あり。おのれは例(いつも)の近眼(ちかめ)にて(2)、えよくもみえねど、何ならん景色の写真額有けり。君と我とは長火桶(ながひおけ)ひとつ隔てゝ相対坐しぬ。例のにこやかに打笑(うちゑ)みつゝ、「こゝへ寄(より)給へ」などの給ふ。七歳にして席を同じうせざる(3)なん行ひがたかる業(わざ)ながら、「かう人気(ひとけ)なき所に後(うしろ)めたうも有る事よ」と思ふに、ひやゝかなる汗の流るゝ心地す。いふべき事もえいひ出(いで)やらで、手に持てるハンけちのみを、かしこき相手とまさぐり居たり。「孝子嫁入らするとて、いたく苦労をなしぬ。世の母親が、『娘を縁付(えんづく)るなん身のやする』といふ事は偽(いつはり)ならず。我ながら痩(やせ)にたる心地のする」などの給ふ。つぎて、龍太(たつた)君(4)鶴田民子ぬし(5)が関係一条引出(ひきいで)て、いと面(おも)なげにの給ふ。


(1)
麹町区平河町2丁目2番地。「隠れ家」は平河町2丁目15番地。負債を逃れるため、桃水はしばしば隠れ家を用いていた。
(2)一葉は近眼がひどく、顔もきちんと分かっているわけではなく、それが誰かは様子で察していたらしい。なのに眼鏡をかけたがらず、本を読むのにも目をくっつけるようにして読んでいたようだ。
(3)七歳になったら男女は同席しない。七歳にもなったら、男女の別をきちんとすべきであるという意。『礼記』(内則篇)の「七年男女、席を同じくせず、食を共にせず」による。
(4)龍田浩。半井桃水の父湛四郎は龍田左仲の三男に生まれたが、半井文中の養子に入った。そこで跡目のない龍田家は、次男の浩に継がせていた。
(5)福井県敦賀の写真館の娘。桃水の妹幸の同級生で半井家に寄宿していたが、東京高女に在学中に妊娠した。桃水の子と言われたが、実際は浩との間に生まれ、千代子と名づけられた。桃水は、たみ子を郷里に帰し、浩は在学していた独逸協会医学校を中退して米問屋に養子にやられた。ここに出てくる隠家は、たみ子が千代子を出産したところといわれる。一葉は後年まで、千代子を桃水との子と思い込んでいた。


「さる頃野々宮君(くん)して聞(きこ)しめさせたる其事よ。我家よりさる醜聞の起るべきなど夢にも思はざりしものを、しらで過(すぎ)たるなん、万(よろづ)はおのれがあやまりなり。さるに、君がかう打絶(うちたえ)て訪(と)はせ給はぬなん、我身に何事の有たる様にさかしらする人や侍りけん。身はしら雪の清きをもて、うたがはれ奉るなん、いと心ぐるしう、かつは君が中頃より打絶させ給ひしを、小宮山(6)などあやしがりて、某(それがし)に猶曲事(まがごと)有る様になん思はるゝ、これもつらし。依(よつ)て、いかで君に以前(もと)のごと訪(と)はせ給はん事をとて、いといひにくかりしかども、野々宮ぬしに委(くは)しく語り奉れるにこそ。おのれは、かゝる粗野なる男子(おのこ)なれど、貴嬢方(あなたがた)にいさゝかも害心をなんさし挟(はさ)まぬ。されば、兄弟中の醜聞(しうぶん)より、御母君(おははぎみ)などやあやふがりて、かう引止め給ふにや。其心配なう参らせ給はゞ嬉しからん」などの給ふ。おのれはさるむにもあらざりしかど、笹原はしる(7)御心なめりかし。小説に付(つき)てしばし物語りして、「先に送り置たるなん、此頃変名にて世に出さばや」などの給ふ。「恥(はぢ)がはしき限りながら可然(しかるべく)」とて依頼す。小説本四、五本かりて、「又こそ参らめ」とてたつ。例の「今しばし」などの給へど、久しうあらむもいといとつらきに、其まゝ帰る。九段坂より乗車して、家に帰りしは五時少し前成し。難陳(なんちん)歌合(8)の巻、廻り来れり。けふはこれが判じをなす。床に入しは十一時成し。

(6)桃水が所属した東京朝日新聞の主筆などを勤めた小宮山桂介(天香)。
(7)脛(すね)に 疵(きず)持てば笹原走る。身に後ろ暗いことがあると、笹のそよぐ葉音のような小さなことにもびくびくして小走りに逃げ足になる。
(8)歌合で、判者が勝負を決める前に、左右が互いに歌のよしあしを論議しあう過程をもつもの。「難」は相手の歌を論難する、「陳」は相手の論難に対して陳弁する意。代表例に、六百番歌合などがある。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から

十二時頃に家を出て半井先生をお訪ねする。この前と同じく二番地のお宅にお訪ねすると、
「色々と込み入った話もあるので、 最近もとめた隠れ家(が)の方へ」
とおっしゃる。連れられて一町ほど手前の、ある裏手の家に行く。部屋は四つほどある。先生の書斎であろう、六畳の部屋に机を置いて、その上に原稿用紙や筆や硯が乱雑に置いてある。障子が四枚あり、その外は縁側であろう。入ったすぐ右には小窓があるが、風が強いためか、閉めたままになっている。左側には三尺の戸棚があり、その並びに同じ三尺の床の間らしいものがある。私は近眼でよく見えないが、何処かの風景写真の額がかけてあった。

先生と私は長火鉢を隔てて向かい合って坐った。先生はいつものように笑顔で、
「もっとこっちへお寄りなさい」
などとおっしゃる。男女七歳にして席を同じうせずとはとても実行できない事にしても、こうして人もいない所に二人きりでいるというのはどうも疾ましくて気が引ける事と思うと、 冷や汗の流れる心地でした。言うべき事もよく言えないで、ただ手にハンカチを後生大事にまさぐるばかりでした。
「妹の幸子を嫁入りさせるのでひどく苦労をしました。世の母親が娘を縁づけることで身の痩せるほど苦労をするというのは嘘ではありません。私もまた痩せたような気持ちです」
などとおっしゃる。更に続けて、弟の龍田浩さんと鶴田民子さんとの関係を取りあげて、 大変面目ない様子で話される。

「先日、 野々宮菊子さんを通してお聞かせしたその事ですが、私の家からこんな醜聞が起ころうとは夢にも思わなかったことです。それを知らすに過ごしていたのは、何といっても兄である私の過失です。それに、あなたがぱったりと絶ち切ったようにお訪ねなさらないと、 私に何事かがあったかのように、取り沙汰し噂する人があったのでしょう。そんな奪は全く知らず、白雪のように清潔な身でありながら疑われるのは全く心外な事です。また、あなたがこのところずっとお訪ねがないのを小宮山君などが疑って、私に何か間違ったことがあるように思われるのは、これもってつらい事です。それで、あなたに以前のように来てもらいたいと思って、大変言いにくい話でしたが、野々宮さんに詳しくお話をした次第でした。私はこんな粗野な男ですが、あなたがた女性のみなさんに対して、失礼な事をするような心は、全然持っていません。だから私の身内の者の醜聞事件を聞いて、あなたの母上などが私を危険だと思われて、私との交際を引き止めていらっしゃるのではないでしょうか。私は潔白なのですから、そのようなご啓配なくお訪ね下されば、どれほど嬉しいことでしょう」
などとおっしゃる。 私はそんな疑いは持っていなかったのですが、先生がこんなにおっしゃるのは、私の心を先走って見ようというお心なのでしょう。

小説の事についてしばらくお話があり、先日お送りしておいた私の小説を、
「近いうちに変名で発表できるようにしたいと思っているのです」
などとおっしゃる。恥ずかしい限りですが、何分よろしくとお願いする。小説を四、五冊借りてお暇をする。いつものようにお引き止めなさるが、長くいるのも大変心苦しいので、そのまま帰る。九段坂から車をひろって、家に帰ったのは五時少し前でした。難陳歌合せの歌稿が廻って来ていたので今日はその判定の言葉などを書いたりする。床に入ったのは十一時でした。

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