樋口一葉「蓬生日記一」⑰

きょうは、明治24年10月27日から。濃尾地震に関する記載も出てきます。

廿七日 よべ、雨や降(ふり)にけん、朝庭少ししめりたり。七時頃地震す。亡兄命日(1)なればとて、はたつもの(2)煮 などして奉る。鳥尾君へ参らん時の料にとて、洗ひ張(はり)(3)させし衣(ころも)縫ふ。はぎもの(4)、ひる前かゝる。下まへ(5)のゑり五ツはぐ(6)。袖にはぎ二ツあり。
   宮城のにあらぬものからから衣(ごろも)
        なども木萩(こはぎ)のしげきなるらむ(7)
絶ずかゝと打笑ふもをかし。日暮て後は手ならひをす。今宵は筆のはこびいと思ふ様にて、例刻(れいこく)よりはすこし多くなしたり。一時床に入る。
(1)長兄の泉太郎。明治20年12月27日に気管支炎で死亡した。
(2)粟、稗、麦、豆など、畑からとれる農作物。ここでは野菜なども含む。「つ」は「の」を意味する上代の格助詞で、水田穀物である穀(たなつもの)の反対語。
(3)着物をほどいて反物の状態に戻してから水洗いをする「洗い」と、水で縮んだ生地の幅を整える「張り」。これらの工程を合わせて仕立て直すこと。
(4)傷んだ布地をつなぎ合わせる作業。
(5)着物を着て前を合わせたとき、内側になる方の部分。
(6)布が短すぎたり破れたりした際、目だたないようにつぎ合わせる。
(7)萩の名所として知られる宮城野ではないが、どうしてこんなに着物の小さなつぎはぎが多いのだろう。「萩」と「つごはぎ」を掛けている。

廿八日 曇天。六時頃、急なる地震あり(8)。「ことしは大地しんの卅七年(9)」とかやいひて、いとうあやふがる人も有るなり。十時頃坂上(さかうへ)(10)なる洗(せん)たく店(や)の主(あるじ)来る。「明日午後(ひるすぎ)までに綿入二枚仕立貰度(もらひた)し」と也。断らむもさすがにて、 いけがふ。午後(ひるすぎ)よりもてくる。国子と二人して日没迄(まで)に平縫(11)丈(ひらぬひだけ)なし終りぬ。暮てより、空晴行(はれゆく)。風少し吹く。例(いつも)の手ならひ一時計(いつときばかり)して作文にかゝる。
(8)1891(明治24)年の濃尾地震。岐阜、愛知を中心に起きた大地震。マグニチュード8.0、死者7273人、全壊家屋約14万戸。明治年間最大の地震で、根尾谷断層が出現した。
(9)天明2(1782)年に起きた天明小田原地震、文政2(1819)年の文政近江地震、安政 2 (1855)年の安政江戸地震と、37年ごとに大地震が発生したことから、この年に大地震が起こると噂されていた。
(10)本郷通りから言問通りに下る菊坂の本郷通りに近い界隈。
(11)しつけ。袖、身ごろ、身八つ口を縫いとめておくこと。

廿九日 早朝配達し来る新聞を見れば、昨朝の地震、東京の地こそ何事もあらざりけらし、各地の電報によれば、「愛知、岐阜辺(へん)より伊勢路、浜松辺など、容易ならぬ災害成り」といふ。但し、「詳細はいまだしれず」と成り。横浜などにも、家屋の崩れたるなどはなかりしものから、電燈会社(12)の烟筒(えんとう)など倒れて、「点燈しがたし」などいふ。或人(あるひと)はいたく驚怖(きやうふ)して、「東京もやがて震(ふる)ふべきなめり」などいふ。午後二時迄に依頼の縫物(ぬひもの)終る。夫(それ)より半井君にはがき奉る。「明日参らん」となり。したゝめかけの文(ふみ)(13)したゝめなどす。夕刻より『朝日新聞』の号外売に来る。 地震の報道なるべし。此夜床(とこ)にいりしは一時三十分成し。夜半(やはん)より強風。 暁方(あかつきがた)に森川町神社(14)の傍(そば)より失火。十二、三戸焼る。
卅日 風止まず。空曇りたる様にて、いと寒し。新聞の来る遅しと取(とり)てみるに、此度(このたび)の災害地の殊(こと)に害を被(かう)むりしは、岐阜県下及(および)大垣、笠松など也。殊に岐阜は全市焼失、更に実情相知れず。岐阜接近の場所、加納(かなふ)、笠松、関、大垣辺、死傷算(さん)なく、焼失崩潰等枚挙(ほうくわいなどまいきよ)にいとまあらずといふ。「江崎牧子(15)ぬしは、上加納(かみかなふ)高岩町に居(きよ)し給ふなる、如何(いかが)し給ひけん」と思ふに、涙たゞこぼれにこぼる。されど鉄道も電信も郵便も不通成りといふに、安否を問(とひ)参らする事も能(あた)はず、空しう打なげきて空のみながめぬ。

(12)横浜共同電灯会社。明治23年に石炭火力発電で送電を開始していた。
(13)「約束の文章」と記されている小説の原稿。
(14)本郷通りに近い森川町にあった映世神社。本多平八郎忠勝を祀っていた。
(15)萩の舎の先輩の乙骨牧子。結婚して江崎姓となり、岐阜県に住んでいた。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》
『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から


 二十七日。昨夜雨が降ったのだろうか、朝の庭が少ししめっていた。七時に地震あり。兄の命日なので畑の物を煮てお供えする。鳥尾家での会のために洗い張りをさせた着物を縫う。 つぎはぎの補修に昼前からかかる。下前(したまえ)の襟を五箇所もつぎはぎする。袖にも二箇所ある。
  宮城野にあらぬものから唐衣なども小萩のしげきなるらむ
 おかしくなって笑いころけていたのでした。日が暮れてからはお習字をする。今夜は筆の運びが思うように出来て、いつもより遅くまで掻き続ける。一時に床に入る。

 二十八日。曇。六時頃はげしい地震あり。今年は大地震がおこる三十七年目にあたるといって、ひどく心配している人もある。十時頃坂上の洗濯屋の主人が来る。明日午後までに綿人れ二枚仕立ててもらいたいという。断るのも気の毒で引受ける。午後品物を持ってくる。邦子と二人がかりで日暮れまでに平縫いだけしてしまう。暮れてから空は晴れ行き風少し吹く。いつものように手習いをしばらくして、それから書き物にかかる。

 二十九日。朝早く配達して来た新聞を見ると、昨日朝の地震は東京地方では何事もなかったようだが、各地からの電報によれば愛知、岐阜あたりから伊勢、浜松あたりなどは大きな被害を受けたという。しかし詳細はまだ不明という。横浜などは家屋の倒壊はなかったものの、電燈会社の電柱など倒れて点燈が出来ないという。或る人はひどく恐れて東京にも大地震が くるだろうなどという。午後二時過ぎに約束の縫物終わる。それから半井先生にはがきをさしあげる。明日お訪ねするというものです。夕方から朝日新聞の号外を売りに来る。地震の報道であろう。夜、床に入ったのは一時三十分でした。夜中から強風。明け方に森川町の神社の傍から出火。十二、三戸焼ける。

 三十日。風は止まず、空は曇ったようで大変寒い。新聞の来るのを待ちかねて見ると、今度の地震の被害の特に大きかったのは岐阜県下と大垣、笠松などでした。殊に岐阜は全市焼失で全く実情がわからない。岐阜に近い加納、笠松、関、大垣などは死傷者は無数、家屋の焼失倒壊などは数えきれないほどというので、上加納高岩町にお住まいの江崎牧子さんはどうなさっているかと思うと涙があふれるばかりです。しかし、鉄道も電信も郵便も不通だというので、安否をお尋ねすることも出来ない。やむなく空を眺めて嘆くばかりでした。

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