樋口一葉「蓬生日記一」⑯
きょうは、明治24年10月24日から、半井幸子の結婚のお祝いを持っていくことになります。
廿四日 空晴たれどいと寒し。八時頃より家をば出ぬ。師の君は昨日より例(いつも)のごとなやみ給ひて、いとくるしげにおはしませど、「近衛家の令夫人うせ給ひしに(1)、其弔(とぶら)ひせでや」とて、おのれに留守ゆだねて、朝のまに趣き給ふ。前田利嗣(としつぐ)(2)君の令妹(いもとぎみ)にて芳紀(ほうき)(3)廿三とか聞止(ききとどめ)し。若君御出生(ごしゆつしやう)の日成しとか。来会者、今日は多からず。伊東夏子ぬしも、いとおくれて参らる。前島むつ子(4)君入門せらる。十時計(ばかり)、師の君帰宅。題二ツ成し。師の君より近衛(このゑ)篤麿(あつまろ)君が哀傷(あいしやう)の歌を承るに、(1)公爵・近衛篤麿の夫人、近衛衍子(このえさわこ、明治2 - 24年)のこと。加賀藩最後の藩主・前田慶寧の5女で、近衛家に嫁いで明治24年に長男・文麿を出産するが、産後の肥立ちが悪く、同年10月20日に死去したという。後の内閣総理大臣近衛文麿の生母にあたる。前田家の人々は、歌子が出稽古で教えていた門人だった。
「なき数に母の入しもしらぬ子の
ゑがほ見るさへかなしかりけり」
「誠心誠意の作(5)は、げに天地(あめつち)をも動かすべき成り」とて師の君歎(たん)じ給けり。午後四時頃、一同帰宅。師の君いとなやまし気にて、直(ただち)に打ふし給ふ。おのれ家に帰りつるは、日没少し前成し。国子、のゝ宮君を訪(とう)て『女学(ぢよがく)雑誌』(6)外少々書物をかりくる。「半井孝子ぬしが嫁入給ふいはゐもの、少しもて行方(ゆくかた)よろしからめ」とてなり。「さは、明日早朝に」と心がまへす。久しう訪(と)ひ奉らざりしうちに、様々あやしき物がたりども(7)多かること、半井君の、そをおのれにつゝまんとて苦心し給ふなど聞にも、少しほゝゑまれぬ。十二時床にいる。
(2)前田慶寧の長男、利嗣(1858 - 1900)。明治4年(1871年)、岩倉使節団の一員としてイギリスに留学した。明治23年の貴族院設立に伴って同院の侯爵議員となり、24年10月に尾山神社で行われた金沢城修築三百年祭の祭典に出席している。
(3)年ごろの女性の年齢。
(4)前島武都子。妹邦子の友人前島菊子の妹。
(5)『古今集』仮名序を踏まえ、歌子は、実情や誠情を歌の理念として強調していたという。
(6)明治18年7月から37年2月まで526号、計548冊が刊行された日本最初の本格的女性誌。当時は巌本善治が編集をしていた。
(7)明治24年7月に鶴田たみ子が半井桃水の弟、浩の子を出産した件。
廿五日 朝来(てうちい)曇天。八時頃宅をば出づ。半井ぬしをとふ。門に車の下り居るは客人のおはしますにやとおもひつるに、さはなくて、兄弟知己の方などへにや暇乞(いとまごひ)に趣き給はんとなめり。おのれは玄関にて祝詞(しうし)のべなどして帰らんとするに、孝子の君、「兄も宅にて侍り。しばし上り給へ」などいふ。うしも出来(いでき)給ひて、かにかくとの給ひつれど、「又こそ」とて帰る。「廿七日福岡地方へ送りやるに(8)、其後必らず参らせ給へ。少し打ものがたらひ度(たき)ことあるに」などいふ。帰路(かへりみち)、師の君の昨日いとなやまし気におはしたれば、とひ参らす。今、佐々木君へ診察受に(9)参り給はんといふ所なりけり。留守の用ども仰(おほせ)つかりて、師の君出給ひて後、書状(ふみ)二、三通したゝめ出し、おのれは直(ただち)に家に帰る。午後(ひるすぎ)よりは書見をす。此夜十二時、床にいる。(8)桃水の妹の幸が嫁いだ医師戸田成年は、福岡県久留米市に住みながら福岡病院に勤務していた。成年の父は『久留米小史』の編著者として知られる戸田乾吉。
廿六日 晴天。国子、関場君へ参る。半井君の負債事件聞来る。尾崎紅葉が不品行(ふしだら)なることなど(10)、いと多く聞ゆ。岡田より仕立もの取に来る。「又、依頼し度(たし)」などいふに、これをも受合ふ。午後、鳥尾家難陳歌合(うたあはせ)二題よみて送る。かしらなやましたれど、いとかひなし。今宵は、いねしは十二時成し。されど、おもふことのなし難きなん、我身ながらにくし。
(9)洋方医佐々木東洋(1839 - 1918)と、その養嗣子の内科医佐々木政吉(1855 - 1939)が営んでいた佐々木医院と見られている。
(10)尾崎紅葉は、明治22年4月『二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)』を刊行し、人気作家としてデビュー。その後『読売新聞』に、「伽羅枕」「三人妻」など艶麗な女性風俗を写実的に描いた長短編を次々と連載していた。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
二十四日。空は晴れているが、大変寒い。八時頃から家を出る。歌子先生は昨日から持病の頭痛でお苦しそうでしたが、近衛家の令夫人が亡くなられたので、そのお悔みに行こうと、私に留守をまかせて、朝のうちにおでかけになる。令夫人は前田利嗣氏の御妹でお年は二十三とかで、お子様の誕生日に亡くなられたとか。
歌会の方は、今日は出席者はあまり多くない。伊東夏子さんもひどく遅れて出席。前島むつ子さんが入門なさる。十時頃歌子先生帰宅。稽古のお題は二つでした。先生から近衛篤麿氏が詠まれた哀傷の歌をお聞きする。
なき数に母の入りしも知らぬ子の笑顔見るさへ悲しかりけり
真心のこもった歌は本当に天地をも動かすことが出来るものだと先生は感嘆しておられた。午後四時頃一同帰宅。先生はひどく具合が悪そうで、すぐに横になられる。私が家へ帰ったのは日暮れ少し前でした。邦子は野々宮さんを訪ねて、女学雑誌や他に少し本を借りてくる。半井幸子さんのご結婚のお祝いを少し持って行くほうがよかろうということになり、早速明朝はやくお届けしようと心積もりする。長い間お訪ねしないでいるうちに、色々と変な噂が沢山あるのを、桃水先生はそれを私に対して隠そうとして苦心しておられるなどと聞くと、少し微笑ましい気がしたのでした。十二時に床に入る。
二十五日。朝から曇。八時頃家を出て半井先生を訪ねる。門に車が止まっているのは来客かと思うと、そうではなくて、幸子さんが兄弟や友人の方々へお別れに行かれるためのものでした。玄関でお祝いだけのべて帰ろうとすると、幸子さんが、
「兄もおりますので、しばらくおあがりなさいよ」
とおっしやる。先生もお姿を見せて、色々とおっしゃつたが、「また改めて」と言って帰る。先生は、
「二十七日に妹を福岡へ送り出すので、その後に必ず訪ねて来て下さい。少しお話したいこともあるので」
とおっしゃった。帰りに、歌子先生が昨日ひどく具合がお悪そうでしたのでお訪ねする。丁度佐々木病院へ診察を受けに行こうとしておられるところでした。留守の間の御用をお聞きして、出かけられたあと、手紙二、三通を書いて出し、そのあとすぐ家に帰る。午後からは読書。夜十二時床に入る。
二十六日。邦子は関場悦子さんのところへ行く。そこで半井先生があちこちから借金をしているという話を聞いてくる。また尾崎紅葉の淫らな女性問題の話など、色々と聞く。岡田から先日の仕立物を取りに来る。また頼みたいというので、これも引受ける。午後、鳥尾家で行われる難陳歌合せの歌を二題詠んで送る。色々と考えて詠んだのだが、あまり上出来ではない。今夜は寝たのは十二時でした。思うことを思い通りにすることが出来ないのは、しかし、 何といっても、我ながら悲しくつらいことです。
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